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マムルーク [授業ネタ]

 今日は熊本県の高等学校教育研究会地理・歴史部会及び高等学校地歴・公民研究協議会がありました。場所は済々黌高校。午後から明日の校内模試の準備のために学校に戻りましたが、授業を見学させていただき、勉強させてもらいました。
 見学したのは「内陸アジアの変遷」でしたが、ちょっと分からないことがあったので、その後の協議会で質問させてもらったのが、マムルークのこと。教科書には、中央アジアに移住してきたトルコ人はそれまでの遊牧生活から定住生活にはいったとありますね。だとすると、トルコ人は遊牧騎馬民族だからマムルークとして採用されたという説明は成り立たないような気がしました。確かに中央アジアでは遊牧などできそうな自然環境ではないです。
 私がこの疑問を持ったのは、先日課外で「中央アジアのトルコ化とイスラーム化」をやっていたときです。京都府立大の97年の問題と一橋大の93年の問題(解答はほぼ同じ.....一橋大はアフガニスタンまで視野に入れなければならないけど....でも、一橋大の方がはるかに難しい....問い方の問題!)をネタにして話をしたのですが、京都府立の問題には、「トルコ人の生活上に起こった変化に重きをおいて」とある。これはどう考えても「遊牧→定住」という以外にはないでしょう。しかし11世紀くらいのトルコ人を担い手としたイスラームの拡大には、トルコ人がマムルークとして受けいられたことが大きく作用していると思われます。
 で、先日買った佐藤次高氏の『マムルーク』を読んでみました。「中央アジアのトルコ化とイスラム化」という項目がありました。57ページ。「これらのトルコ人は、モンゴル高原にあっては、羊や馬を放牧する遊牧生活を営んでいた。アラブのカリフやアミールたちが注目した騎馬戦士としてのすぐれた資質は、長い時代にわたってこのような遊牧生活をつづけるうちに、しぜんと培われたものであろう。しかし彼らのなかには、豊かな都市文明にひかれてオアシス地帯に移住し、遊牧と戦いの生活をすてて定住生活にはいる者もあらわれた。この遊牧から定住生活への移行は、9世紀以後の時代にとくに著しい。」
 とすると、マムルークとしてトルコ人がイスラーム世界に大量に導入されるようになったころ、彼らはすでに遊牧生活をやめていたけれども、長きにわたって培った騎馬民族のとして資質は失っておらず、そのためマムルークとして重用されたと理解するしかないようですね。

マムルーク―異教の世界からきたイスラムの支配者たち

マムルーク―異教の世界からきたイスラムの支配者たち

  • 作者: 佐藤 次高
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 1991/03
  • メディア: 単行本


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コメント 2

N.Y.

  いつも楽しく、興味深い話題を掲載してあり、勉強させていただいております。
「トルコ人の定住化」と「マムルーク」としての活動の関係ですが、『アジアの歴史と文化8』(同朋社)梅村坦氏執筆分の「中央アジアのトルコ化」では、「ウイグル人は、自ら都市民となりまた農民となっていった。一般ウイグル人が次第に定着化していくには遊牧運営にも変化があったにちがいない」とし、「冬営地を中心とする半定着的遊牧形態への変化」を指摘しています。ウイグル人は全て定着農耕民になったのでなく定着的な形態に変化させながら遊牧生活をおくるものも多かったということでしょうか。また「シル川を越え、トランスオクシアナに拡大した遊牧トルコ族の一部はサーマーン朝の忠実な奴隷軍人(マムルーク)としてリクルートされ、後の西アジア・中東イスラームの歴史における軍事システムのプロトタイプを提供した」とされています。梅村氏によるとトルコ族が完全に遊牧生活をやめていたとはいえないようです。
   『岩波講座世界歴史11  中央ユーラシアの統合』の杉山正明氏執筆の「中央ユーラシアの歴史構図」では、旧ウイグル国人の中央アジアへの移動は玉突き現象として、トルコ系諸族の大西進をひきだすことになり、それらを全体として「牧畜・農耕と国際通商を兼備する多人種の複合国家を形成した。「ウイグル」という名のもとにさまざまな人々が包括されたのである。これが「ウイグルの定住」とよばれるものの実態」とされています。「遊牧」という言葉は用いられていませんが、トルコ系の人々が遊牧をやめて定住・農耕民にかわったとは単純にはとらえられないようです。
  この点は、大阪大学の森安孝夫先生にぜひ質問したいと考えているところです。その結果またコメントいたします。どうも長々と失礼いたしました。
by N.Y. (2005-11-10 08:13) 

zep

 こんにちは。貴重なご回答ありがとうございます。どうも私の頭の中には以前読んだ「遊牧民(モンゴル)とオアシス民(ウイグル)との共生関係」の話が強すぎたようです(二井氏の論文)。お恥ずかしい話ですが、N.Y.先生からご紹介頂いた本は、いずれも未読であります。仕方なく、ご指摘に沿って手持ちの本を読んでみましたところ、杉山氏の『遊牧民から見た世界史』に、同様の記述が確かにありました。ウイグルの移動先は、甘粛から天山にかけての遊牧が可能な地帯で、そこに彼らは「牧畜と通商・農業を組み合わせた牧農複合国家」を建国した、ということですね。「上には遊牧型の移動生活を保持するテュルク系の支配者をいただき、下には色とりどりの人種・文化・言語からなるオアシス住民が広がる二重構造の国家が一挙に三つまでも、並び立つことになった。」三つのうち一つがカラ=ハン朝ということですが、なるほど、移動しても定住せずに「遊牧型の移動生活」を維持したのですねぇ。深まりました。これですっきりしました。どうも有り難うございます。ところでN.Y.先生は阪大のCOEプログラムにご参加されたのですね。うらやましい限りです。私は残念ながら参加の機会を得たことはないのですが、この日授業を実施した先生は参加したとおっしゃってました。機会があれば是非参加して、N.Y.先生にもお会いしたいものです。また色々と教えてください。
by zep (2005-11-10 21:20) 

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