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ベラスケス「白い服のマルガリータ」 [モノ教材(紙モノ)]

マルガリータ.jpg

 帝国書院の世界史資料集『タペストリー』の「17・18世紀の文化」のページには、ベラスケスの代表作「官女たち(宮廷の侍女たち)」が掲載されています。
 この絵は鏡に映っているスペイン国王フェリペ4世夫妻の肖像を描いているときに、王女マルガリータ(当時5歳くらい)がはいってきてだだをこねているという様子を描いたものです。しかし、話としてはマルガリータ王女の肖像画を描いているときに退屈した彼女がむずがっているという方が面白いでしょう。私も「定説ではないが」ということでマルガリータモデル説を授業では話しています。そこで使うのが、この「白い服のマルガリータ」。大きさは 46 x 61 cm。なだめすかして完成したのがこの絵だよ、というワケです。

 これを使えば当時画家がおかれていた立場=単なる職人という点を説明できます。ベラスケスが弱冠二十四歳で宮廷画家となったとき、彼の月給は20ドゥカート。理髪師の月給と同じだったそうです。

 「官女たち」はスペインにありますが、「白い服のマルガリータ」はウィーンにあります。ウィーンにはベラスケスがマルガリータを描いた「バラ色の服」(2~3歳)、「青い服」(8歳くらい)の合計三枚のマルガリータの絵があります。マルガリータは神聖ローマ皇帝レオポルド1世妃としてスペイン=ハプスブルク家からオーストリア=ハプスブルク家へ輿入れすることになっていたからで、3枚の絵はお見合写真のかわりということです。今でこそ絵も写真もアートなのですが、当時は実用的な側面の方が強かったのでしょう。イングランド王ヘンリ8世は、4番目の妃アン・オブ・クレーヴズの肖像画(ホルバインが描いた)が実物とあまりに違っていたため、初めて彼女を見たとき激怒したというエピソードが残っています。

 主権国家体制のもと、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれますが、婚姻を通じて深く結びついていたようです。マルガリータは15歳でレオポルド1世のもとへ嫁ぎ、仲むつまじかったそうですが、二人の間に生まれた子は一人をのぞいていずれも夭折しています。マルガリータ自身も21歳のときに気管支炎が原因で痰がのどに詰まり亡くなっています。

 この絵のベラスケスは、胸にサンチャゴ騎士団の紋章である赤い十字が描かれています。ベラスケスが同騎士団の団員となるのはこの絵が描かれた1656年から3年も後なので、後から書き加えられたのは確かです。バロック時代になると、それまでの「絵描き」は「アーティスト」としてその社会的地位は大きく向上したと言えるでしょう。

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