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松岡亮二『教育格差』(ちくま新書) [その他]

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 ずいぶん昔のことだが、教え子のひとりが『東大文1―国家を託される若者たち東大文Ⅰ』(データハウス)という本で取り上げられた。彼がピックアップされた理由は、公立高校出身者だったからである。熊本県内では優秀な生徒が最も多く通っているとされる熊本高校から東京大学に合格したという快挙も、全国的な視点からすれば「進度が遅いというハンデを乗り越えて」栄冠を勝ち取ったと見なされるのである。十数年前にある有名私立校の定期考査問題(世界史)を見せてもらったことがある。熊本高校2年生の定期考査問題とほぼ同レベルの問題だったが、その問題はその学校の中学3年生で実施された定期考査の問題だった。

 都市圏と熊本との地域格差はもちろんのこと、熊本県内でも「熊本市内とそれ以外」という居住地域にもとづく「スタート時からの格差」が存在する。2020年3月3日(火)の朝日新聞(熊本県内版)に掲載された「公立校 進む統廃合」と題された記事によれば、2006年に85校あった熊本県内の高校は17年までに76校に減少したが、熊本市内だけに限れば27校という数は1980年代後半から現在まで変わっていない(この間1988年に東稜高校が新設され、2011年に熊本フェイス学院が開新高校と合併して消滅した)。つまり中学卒業後は熊本市内の高校に進学を目指す生徒が多いわけで、実際生徒数をみても熊本県の高校生は2005年の5万8千人から18年には4万8千人に減少したが、熊本市内の高校に通う生徒数は約2万6千~2万7千人とほぼ横ばいである。地方と都市圏のみならず、地方の中でもさらに格差は拡大している。

 では、こうした格差が生まれる要因は何だろうか。3月11日付の熊本日々新聞の読者欄「若者コーナー」で、高校生が「三つの格差を縮めるために」と題して、教育格差に言及していたが、教育格差の原因として「親の収入」をあげていた。なるほど、高い所得の家に生まれた子どもは、塾に通ったり家庭教師をつけてもらったりと、親から様々なサポートを受けられるだろう。実際、「東大生の親の年収は、平均の約2倍」という調査結果もある[https://dot.asahi.com/aera/2012111600016.html]。では親の収入の格差が教育格差の原因だという言説は本当に正しく、他の要因はないのだろうか。また教育格差を縮める処方箋はないのだろうか。こうした疑問から手に取ったのが本書である。

 教育格差の指標として、最終学歴の差を用いている。最終学歴の差は、生涯賃金をはじめ職業や健康など様々な格差の要因につながるからである。本書の前半はデータの冷静な分析となっている。すなわち、最終学歴は生まれ(親の最終学歴や出身地域)という本人には如何ともしがたい要因に左右されるという仮説が正しいことを、統計データの分析を通じて明らかにしている。序章から第5章までのトピックは、以下の通り。

  ・父親が大卒だと、子どもも大卒になる割合が高い。
  ・生活する都道府県が三大都市圏、市町村が大都市だと、大卒となる割合が高い。
  ・教育格差は、小学校入学前から始まる。
  ・公立の小学校であっても、学校間で学力の格差が存在する。
  ・親が大卒だと、中学校教育への親和性が高い。
  ・中学校では公立と私立のみならず、公立間・私立間でも学力格差が存在する。
  ・高校間の学力格差は、親学歴による学力格差に起因する。
  
 以上のトピックはさして目新しいことではなく、私を含め多くの人が漠然と感じていることだろう。しかし重要なことは、その漠然と感じていることをデータを使って「今そこにある格差」として論証してみせたことにある。つまり日本の教育格差は、本人の努力では克服することが難しい「生まれ」に起因しており、しかもその差は幼稚園から高校までなかなか縮小しない。したがって、「不利な状況でも努力で克服できる」「学校の成績が悪いのは、勉強をサボっている本人の責任」という自己責任論はあまり説得力を持たないし、その意味で日本は緩やかな身分社会ともいえる。こうした状況を克服することが、結果的には社会全体の平均値を上げることにつながっていく、と著者は主張しているが同感である。

 教育格差を克服するため、筆者は二つのことを提案している。まずは分析可能なデータを収集して教育政策や改革を検証すること、そしてもう一点は、大学の教員養成課程で「教育格差」を必修とし、どちらかと言えば「勝ち組」であるため格差に気づきにくい教師に現状を把握させることの二点である。あまりに大きな問題に対して、やや対策が小粒な印象も受けるが、では他に何かあるかというと、今の私は対案を持ち合わせていない。2020年3月15日付の熊本日日新聞「くまにち論壇」で教育哲学者の苫野一徳先生(熊本大学教育学部)は、「公教育の構造転換」を提唱している。これまでの「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムから、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換である。確かにこれまでのみんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムでは、小学校入学前から始まっている教育格差は縮まらないだろう。協同化によって、格差は縮まり、またプロジェクト化によって意欲も高まるように思われるが、一方で個別化は格差を増大させるようにも感じる。

 19世紀後半~20世紀初頭の西欧の家庭や家族について述べた文として最も適当なものを、次の ①~④のうちから一つ選べ。
 ① 庶民階級の子供は、学校教育の対象とはされず、読み書きは専ら家庭で教えられていた。
 ② 中産階級の家庭では、夫婦共働きが理想の家庭と考えられるようになった。
 ③ 家庭は、消費と精神的なやすらぎの場から、生産と消費の場へと変化した。
 ④ 中産階級の家庭では、結婚後の女性が家事や育児に専念する傾向が強まった。
                (1998年度 センター試験 世界史A本試験 第2問C )

 
 上の問題における選択肢①は逆で、イギリスでは1870年に自由党のグラッドストン内閣のもとで最初の教育法が制定され、庶民階級の子どもを対象とした初等教育が実現した。上流階級の家庭では家庭教師によって初等教育段階での教育を身に付け、その後イートンやハローなどの伝統的なパブリック=スクール(私立学校)で中等教育段階の学習が行われることが多かったからである。国民の統合が必要となった19世紀には、統一的な読み書き能力や共通の歴史認識が必要となってくる。こうして公教育は国家的な事業となり、国民を育成すると同時に教育格差を是正する役割をも担っていた。現在の日本では、そうした格差を縮小するという公立学校の役割は十分に機能しているとは言い難い。その意味で、Youtubeを通じて日本史・世界史の無料授業を行っているMundi先生など大学受験のための授業を無料配信する取り組みは素晴らしいと思うし、また「高校生の半分は大学に行かないから大学進学のための受験指導に血眼になる必要は無い」という意見は、首肯できるものではあるものの格差を自明のものと考える傲慢さも感じられる。もちろん教育格差は日本だけの状況ではないが(鈴木大裕著『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』岩波書店)、こうした認識を欠いた状態での教育は「優秀である一方で、低賃金でも文句を言わずに働く、金持ちに都合がいい労働者」、つまり格差があるのは仕方ないと諦観した人々を生産しているのかもしれない。そして自分はそれに荷担しているのではないか?と自問するとき、私は慄然とするのである。


著者による解説
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65952

都市と地方の格差
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353




教育格差 (ちくま新書)

教育格差 (ちくま新書)

  • 作者: 松岡 亮二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 新書



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