『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』 [幻想文学]
『アラビアンナイト』を高校世界史の授業で扱うときには、そのルーツが多様でありイスラーム文化の普遍性を示す事例として紹介することが多い。1991年のセンター試験世界史本試験(第3問)の問題は、そのことをよく示していると思う。
問7 下線部⑦について述べた次の文①~④のうちから,誤りを含むものを一つ選べ。
① イスラム文化は,イラン・インド・ギリシアなどの文化遺産を融合し発展させた独自の文化である。
② イスラム文化は,多様な民族を担い手とする国際的文化である。
③ イスラム文化では,神像や礼拝像が盛んに制作された。
④ イスラム文化の影響は,ルネサンスにも及んでいる。
問8 下線部⑧について述べた次の文①~④のうちから,波線部の正しいものを一つ選べ。
① この物語の原形がイランに伝えられたとされる6世紀ころ,イランを支配していたのはササン朝である。
② この物語は,8世紀後半に最初にアラビア語に翻訳されたといわれているが,当時はウマイヤ朝の全盛時代である。
③ この物語が『千夜一夜物語』と呼ばれるようになったのは,12世紀とされるが,このころイランにはサファヴィー朝が成立していた。
④ この物語がほぼ現在の形をととのえるのは,16世紀初めころのカイロにおいてであるとされるが,これはマムルーク朝成立期に当たっている
前嶋信次先生の『アラビアンナイトの世界』(講談社現代新書)によれば、『アラビアンナイト』にはペルシアはもちろんのことユダヤ、ギリシア、インド文明の影響も見て取れるという。そうした様々な文明からの影響という視点以外では、2006年度のセンター試験世界史B(本試験・第1問C:世界史Aとの共通問題)の問題は印象深いものだった。
問7 『千夜一夜物語』の翻訳事業には,ヨーロッパの中東進出という時代状況を反映する一面がある。下線部(7)に関連して,次の年表に示したa~cの時期と,以下のア~ウの出来事との組合せとして正しいものを,以下の①~⑥のうちから一つ選べ。
a
1838年 レインによる英語版翻訳の刊行開始
b
1885年 バートンによる英語版翻訳の刊行開始
1899年 マルドリュスによる仏語版翻訳の刊行開始
c
1966年 前嶋信次による日本語版翻訳の刊行開始
ア スエズ運河の開通
イ ワフド党によるエジプト独立運動の開始
ウ ナポレオン=ボナパルト(後のナポレオン1世)によるエジプト遠征の開始
① a―ア b―イ c―ウ
② a―ア b―ウ c―イ
③ a―イ b―ア c―ウ
④ a―イ b―ウ c―ア
⑤ a―ウ b―イ c―ア
⑥ a―ウ b―ア c―イ
『アラビアンナイト』翻訳の進展はヨーロッパの中東進出という時代状況を反映しているとする視点は、「翻訳」の意味を考えていくうえでも興味深い(先日ツイッター上で、「世界中の様々な分野の先端研究が、日本語の翻訳で読めることは大切だ」という指摘が出ていた)。この点で面白かったのが、西尾哲夫先生の『世界史の中のアラビアンナイト』(NHKブックス)である。
2006年のセンター試験で使われた年表の中に最初に登場するのは「1704年 ガランによる仏語版翻訳の刊行開始」。『世界史の中のアラビアンナイト』によれば、アントワーヌ=ガランはルイ14世時代のフランスで活躍した東洋学者で、17世紀後半に三度にわたってイスタンブルに滞在した。このころはすでにオスマン帝国の脅威は過去のものとなっている。ガランの訳は必ずしも忠実な訳ではなく、リード文中で「ヨーロッパの東方趣味を強く反映した」と触れられているバートン版やマルドリュス版と同様に、ガラン版も(バートン版やマルドリュス版とは異なる点で)ヨーロッパ化されていた(108㌻以下)。同じ18世紀には、東インド会社職員のアラビア語用テキストとして『千夜一夜物語』がカルカッタで印刷出版されていた(カルカッタ第一版)というのも面白い(156㌻~)。
年表中の( a )には「ナポレオン=ボナパルト(後のナポレオン1世)によるエジプト遠征の開始」がはいる。これも『アラビアンナイト』と関係がある。同書68㌻に「レインより少し前、ナポレオンのエジプト遠征に同行して『千夜一夜物語』に触れたヴィヴィアン・ドゥノン(ルーブル美術館の初代館長)」のことが、長谷川哲也のマンガ『ナポレオン-獅子の時代』(少年画報社)のドゥノンの登場シーン(舞台はナポレオン遠征中のエジプト)とともに紹介されている。エドワード=サイードが指摘するように「オリエンタリズム」は西洋と区別された東洋を下に見ているが、そうした差別的な要素が明確となるのがナポレオンのエジプト遠征だろう。ナポレオンが発見したロゼッタ=ストーンが現在フランスではなく大英博物館に収蔵されているのに、ロゼッタ=ストーンをもとにヒエログリフを解読したシャンポリオンがイギリス人ではなくフランス人だというのも、当時の英仏関係を象徴してるようで面白い(竹内均監修『世界の科学者100人』教育社)。
次に年表に登場するのは、イギリスの東洋学者エドワード=ウィリアム=レイン(1801~1876)である。彼が1840年に結婚したナフィーサという女性は、もともとギリシア人でギリシア独立戦争の際に捕虜となり奴隷となった女性らしい。ギリシアの独立が国際的に認められるのは1830年、この年フランスではシャルル10世がアルジェリア出兵を行い、七月革命が起きる。ロマン主義の時代だが、ドラクロワやユゴーは東方趣味を示していた(235㌻~)。以後、帝国主義とアジア・アフリカの植民地化が進むにつれて『千夜一夜物語』の翻訳も進んでいったことを年表は示している。( b )の「スエズ運河が開通」は1869年。19世紀後半にイギリスの軍人ローリンソンが楔形文字を解読し、オランダの医師デュボワがジャワ島でピテカントロプス=エレクトゥスの化石を発見するのは、こうした業績が植民地の拡大と無関係ではなったことを示している。
リチャード=バートンについて、Wikipediaには次のような記述がある。
1857年、東アフリカのナイル川の源流を探す旅を友人の探検家ジョン・ハニング・スピークとともに行い、1858年にタンガニーカ湖を「発見」した。これこそが源流だとバートンは主張したが、スピークは納得せずにさらに探検してヴィクトリア湖を発見。これこそ本物だと考えるようになる。二人で帰国しようとするが、途中のアデンでバートンは熱病で伏してしまった。一足先に帰国したスピークは、約束に反して単独で成果を公表したために両者の関係が悪化する。
上記の文章から分かるようにバートンはヴィクトリア時代の探検家だが、「やや狼に似た長く鋭い犬歯をもつ人物であったらしく、1870年代に面識を得たブラム・ストーカーは、このバートンの容貌から『ドラキュラ』の主人公を創り出した」(荒又宏『世界幻想作家事典』国書刊行会・72㌻)。『ドラキュラ』の出版は1897年。
学術的資料的な要素が強いレイン版に対し、マルドリュス版はバートン版と同様に官能性を強調する傾向が強い。2006年センター試験リード文の「バートン訳やマルドリュス訳のように,ヨーロッパの東方趣味を強く反映した翻訳も現れた」という一文は、もしかするとこのことを示しているのだろうか。日本でもマルドリュス版は1920年代から邦訳されていたが、戦前は発禁処分とされたこともあったらしい。
私が生まれた年に刊行が始まった前嶋信次訳(東洋文庫版)は、19世紀前半にイギリスによってインドで編集されたカルカッタ第二版を底本としている。カルカッタ第二版は、バートン版の底本でもある。
18世紀ころのイギリスではチャップブック(民衆本)として『アラビアンンナイト』の説話が流布していた(『世界史の中のアラビアンナイト』146㌻)。チャップブックは子供向けの小型で簡素な本である。手元にある「オズボーン・コレクション」(ほるぷ出版による復刻版)を見てみたが、残念ながら『アラビアンナイト』は含まれていなかった。『アラビアンナイト』は、ファンタジーでミステリーでSFの要素を持った児童文学として受け入れられることで世界文学としての地位を確立した。
現在でも様々なゲームや映画、マンガなど様々なメディア芸術にネタを提供しているのは、ストーリーが教訓的でないうえ、登場人物の属性が厳密でなく、キャラクター設定の自由度が高いからだろう。『アラビアンナイト』はヨーロッパと出会ったことで、文化や言語の壁を越えて愛される普遍性を帯びるようことになったといえる。
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