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佐藤卓己『ファシスト的公共性~総力戦体制のメディア学』(岩波書店) [歴史関係の本(小説以外)]

 年が明けて2021年となり、高校で新科目「歴史総合」がスタートするまであと1年余りとなった。折に触れて「歴史総合」をテーマとした本などを読んでいるが、読めば読むほどやれる自信はなくなっていく。「歴史総合」は、近現代史における長期的な三つの変化「近代化」「大衆化」「グローバル化」に焦点をあてて構成されているが、「大衆化は何をもたらしたのか」と問われても、正直よくわからない。分からないことを考えることが重要だと言われればその通りだが、わからないままで評価や助言をしようなどは不遜極まりない。かと言って、教員が想定した答えが出せるように資料を構成した誘導尋問的な授業は対話的にはなるかもしれないが、真の意味での主体的な学びにはならないような気がする(「理論批判学習」でも「批判」にならないことが多い)。抽象的なルーブリックをいくら作成しようが、「授業でこんな答えが導き出せたら何点」という具体的な基準をつくっておかなければ意味がないのでないだろうか。現状、「この答えはルーブリックのどのレベルに該当するのですか?」と生徒から問われたとき、「根拠を示して説明」できなければならないが、正直私には自信がない。

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 さて、「大衆化は何をもたらしたのか」という問いに対する答えを考えるヒントを探していて、たどりついた一冊が本書である。本書は著者が1993年から2015年にかけて発表してきた論考を集めた論文集で、第Ⅰ部「ナチ宣伝からナチ広報へ」(第一~三章)と第Ⅱ部「日本の総力戦体制」(第四~七章)から成るが、考えてみればタイトルの「ファシスト的公共性」とは奇妙な言い回しである。「あいつはファシストだ」というのは誉め言葉にならないし、「この施設は公共性が高い」という表現は対象を評価する言葉になる(「正直な「公共性」研究者の回顧」という副題のついたあとがきも、著者のドイツ留学時にドイツ人学生と交わした会話はなどたいへん面白い。)。「ファシスト的公共性」とはいったいどのような状態・モノを指すのだろうか。序章にある次の一文を読んで、久しぶりに「本に引き込まれる」感じがした。
 
「19世紀の民主主義は、「財産と教養」を入場条件とした市民的公共圏の中で営まれると考えられていた。一方、20世紀は普通選挙権の平等に基礎を置く大衆民主主義の時代である。そこからファシズムが生まれた事実は強調されねばならない。理性的対話による合意という市民的公共性を建て前とする議会制民主主義のみが民主主義ではない。ヒトラー支持者には彼らなりの民主主義があったのである。ナチ党の街頭行進や集会、ラジオや国民投票は大衆に政治的公共圏への参加の感覚を与えた。この感覚こそがそのときどきの民主主義理解であった。何を決めたかよりも決定プロセスに参加したと感じる度合いがこの民主主義にとっては決定的に重要であった。ワイマール体制(利益集団型民主主義)に対して国民革命(参加型民主主義)が提示されたのである。ヒトラーは大衆に「黙れ」といったのではなく「叫べ」といったのである。民主的参加の活性化は集団アイデンティティに依拠しており、「民族共同体」とも親和的である。つまり民主主義は強制的同質化(Gleichschaltung)とも結託できたし、その結果として大衆社会の平準化が達成された。こうした政治参加の儀礼と空間を「ファシスト的公共性」と呼ぶことにしよう。民主主義の題目はファシズムの歯止めとならないばかりか非国民(外国人)に不寛容なファシスト的公共性にも適合する。」

 こうした話を高校の世界史の授業で取り上げることは稀なことであると思う。しかしヒトラー政権は合法的な手続きを経て成立したのであり、上記のような指摘を念頭において初めて「ナチズムはなぜ受け入れられたのか」という問いが立てられるようにも思われる。それにしても、この文章は著者が1997年に雑誌に発表したということだが、本書における引用箇所の前後を読むと著者も述べているように、現在との類似性を感じてしまう。

普通選挙を前提とする20世紀の大衆社会からファシズムは生まれたのであり、本書を読んでいるとファシスト的公共性とは大衆社会そのものであると言い切ってもいいような気がしてきた。ナチスは集会やデモ、ラジオ放送や国民投票を通じて世論形成への参加感覚を与えていたが、映画やラジオ放送というメディアの重要性も授業で取り上げてみたいものである。

 ツイッターで政治に関する話題が多いのは、政治参加の感覚が手軽に得られるということがあるのかもしれない。帯にある「参加と共感に翻弄される民主主義」というタタキ文句を見て真っ先に思い出したのは、ツイッターの世界だ。序章の最後、「(現代社会の基軸メディアは最強の即時報酬メディアであるインターネットだが)遅延報酬的な営み、つまり教育が期待できない場所には未来もない」という言葉を肝に銘じておきたい。「学校で学んだこと、テストで測定されるような知識や技能、それらを全部忘れ去ったときに何か残るもの、それが教育の効果である」というマーガレット・サッチャー英元首相が来日時に語ったという言葉を思い出す。



ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/04/05
  • メディア: 単行本



増補 大衆宣伝の神話: マルクスからヒトラーへのメディア史 (ちくま学芸文庫)

増補 大衆宣伝の神話: マルクスからヒトラーへのメディア史 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/05/08
  • メディア: 文庫



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