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社会科教師教育研究の動向と課題 [その他]

 四捨五入すれば還暦という年齢になり、教師生活も残り僅かとなった(段階的定年延長がスケジュール通りに進めば、昭和41年生まれの私は64歳が定年になるが)。この年齢で正担任と部活顧問(野球部部長=責任教師)を抱えていると、教師としてのスキルアップなどはついつい後回しになる(はっきり言うと、優先順位は低い)。現在は社会系教科教育学会・全国社会科教育学会の会員だが、学会誌を読む時間的・体力的な余裕もなく、ましてや研究大会に参加する余裕などまったくない。そろそろ退会しようかと思っていた。これまでは課外授業による時間外手当があり確定申告を毎年行っていたため、こうした学会の会費も必要経費として計上することができたが、それもなくなった。退会するいい機会かな....と思案していた中、先日届いた『社会科教育論叢』(全国社会科教育学会)の特集「社会科教育研究の動向と課題」はなかなか面白かった。特に興味深かったのは、以下の二つ。

 ・渡部竜也「教員養成カリキュラムの研究と実践-教科教育の有効的関係の構築を目指して」
 ・南浦涼介「自主的研究組織と社会科教師の多様性-あるいはSNSという対抗的公共圏からの学会へのまなざし」

 この二つの論文が目にとまった背景には、渡部先生(https://twitter.com/qi2yXOPeY1zkJ9J)と世界史教師のボリバル先生(https://twitter.com/world_history_k)とのツイッター上でのやりとりがある。正直お二人の意図を正確に読み取ることもできていないので、どちらがの意見がいいとも言えないのだが、お二方とも真摯な取り組み(=よりよい授業をつくっていきたいという思いが感じられる取り組み)を行っている。しかしそのことが、現場教師と研究者との意識の違いを際立たせることにつながったように私には感じられるのである。

 渡部先生の論文には、私が知っている先生方のお名前が登場して、まずは懐かしい思い。「静観型」に分類されている溝口和宏先生とは、新潟大学で行われた日本西洋史学会の第57回大会でご一緒させていただいた[http://www.seiyoushigakkai.org/2007]。鹿児島大学で行われた全国社会科教育学会の研究大会でもお世話になった。また「消極的介入型」に分類されている梅津正美先生とは、共同で発表(社会系教科教育学会)と論文執筆を行ったことがある[https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5975291-00]。溝口・梅津両先生の授業プランについてはこれまでも知る機会があったが、私が現職の教員ということもあり、お二人が教員養成系大学で教師教育をどのように進めているかを知る機会はなかった。それゆえ、お二方それぞれの授業プランと、本業?でもある教員養成との関わりを考えることができてなかなか興味深かった。
 日本西洋史学会でのシンポジウムで司会をされたのは、児玉康弘先生だったが、渡部先生のウェブサイトを拝見したところ、児玉先生は渡部先生を批判していると。うーむ。
http://sswatanabe.web.fc2.com/first.html#%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%E3%81%AE%E7%9A%86%E6%A7%98


 私は教員養成系大学(熊本大学教育学部)の出身で、ゼミは西洋史だったが社会科教育法の授業では「説明」の授業理論を中心に勉強した(担当の先生が広島大学出身だったので)。そのため、鳴門教育大学の大学院に派遣されて学んだ「意思決定」の授業理論にはなかなかなじめず、原田智仁先生の「理論批判」や児玉先生の「解釈批判」といった方法論にひかれたものである。そうした経験から、渡部先生がそれぞれの類型に対して述べておられる批判は、それぞれに理解できる。

渡部先生のツイッター上の発言を読むと、時々真意を測りかねる発言がある。しかし、渡部先生の論文を読むと、ツイッター上での発言だけではよくわからなかった先生の考えも、理解できるように思う(特に、4つの類型に対する批判の箇所)。渡部先生の著書については、斉藤仁一朗先生のウェブサイト[https://jinichiro15.com/]に詳しい(「感想メモ」の中)。社会科教育関係の本はここ10年以上読んだ記憶がないが、久しぶりに読んでみたいと感じた本。

 南浦涼介先生の論文を読んで改めて感じたことは「教師は基本的に勉強したいと思っている」ということ。多かれ少なかれ、教員は勉強が好きで、その楽しさをわからせたいと思って先生という仕事をしていると思う。しかしその一方で、自分を取り巻く様々な環境に対して不安を持っているのも事実。匿名性が重視されていることは、「身バレ」やトラブルを避けたいという意識の表れだろう。かつて私もツイッターの内容について、公的な機関から注意をされた経験がある。様々な意見を聞いて勉強したいが、あまり深入りはしたくないという若い先生方の思いと、現場の教師の力になりたいがなかなかうまくいかないという研究者の先生方との齟齬も感じられてモヤモヤする。
 教師教育研究が注目されているのも、新しい学習指導要領で教育内容のみならず方法まで示されたことで、勉強したいという学校現場の教師が増えたことがあるように思われる。そのことは、明らかに良いことだと思う。しかし私の周りでは、教員の会合でも学習内容の話題には花が咲くが、学習理論が話題になることはあまりない。世代交代を進めるべき時期に差し掛かっているのかもしれない。

 今回掲載されていた諸論文には、「ゲートキーピング」という言葉がたびたび出てくる。これは「カリキュラムや授業を目的や目標に応じて調整する教師の主体的な営み」という意味であると[https://www.jstage.jst.go.jp/article/nasemjournal/39/0/39_107/_pdf ]。授業だけはなく、カリキュラムも含んでいるところが重要なのだろう。昨年受けた教員免許更新講習でも「カキュラム・マネジメント」の講座があったが、私にとってはクソだった。あと10年近く教員を続けるのはキツいな。

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教員の労働環境と教員養成系大学の授業 [その他]

2月に入って、新聞の紙面では新型コロナウィルス感染症と教員の労働環境に関する記事が目立つ・教員の労働関連では、
  2月1日(月) 部活交通費 23府県不支給 熊本など
  2月2日(火) 教職員残業 上限超え4割 
          県高教組調査 1割は過労死ライン
  2月3日(水) 小学校教員採用 競争率最低
          19年度 多忙化 低迷の一因
と、熊本日日新聞には三日連続で教員の労働環境をめぐる記事が掲載されていた。極めつけは、2月4日(木)に掲載された岡崎勝先生の連載「学校のホンネ」の「コロナ禍 増える不登校 教師の疲弊が引き金にも」である。

 昭和41年生まれの私は、今年度2度目の教員免許更新講習を受けた。最近ではe-ラーニングや放送大学などオンラインによる研修も少なくないが、母校で受けてみるかと思い熊本大学教育学部で受講したところ、受講費をドブに捨てたようなクズ講習のオンパレード。わが母校ながら嘆かわしい限りだ。受講した5講座の中で唯一満足できたのは「地域研究の方法論」だけで、中でも最悪だったのが「教育の最新事情」。認定試験の問題が午前と午後でほとんど同じだった。当然同じ内容を書いたのだが、結果は「認定」だった。バカにするにもほどがある。
 今の学校は、児童生徒のだけでなく教員も児童生徒と同じくらいのキツさを感じていると思う。だがしかし、受講した教員免許更新講習や熊本大学教育学部の入試で行われた過去の面接試験をみると、「児童生徒をどうするか」オンリーで、教師に向けるまなざしがほとんど感じられない。大学で教員のメンタルヘルスに関する講義があっているのかと思ったが、話を聞く限りはそうでもない。まぁ大学の先生方からみれば、スマホ指導や主権者教育、部活に保護者対応とかICTとか、「大学で教えることじゃない」って思っておられるのかもしれないが、実際現場に出れば授業以外の業務が山のようにあるし、どうしていいかわからないことも多いと思う。教員志望の学生には、「同僚のパワハラで鬱になったらどうするか」とか、「管理職から監査の前に〇〇を強制されたときにどう対応するか」「生徒から先輩教師の不適切な言動の訴えがあったらどう対応するか」といった自分の身を護るすべも教えた方が、役に立つのではないか。

 教育実習に来る大学生を見ていると、「教師は勤務時間とか無視して当たり前」と思っている節がある。遅くまで残ってるし、教員の勤務時間を過ぎても当然のように訪ねてくる。これは大学側の教育不足とともに、われわれも彼らが高校生の頃に「教師は勤務時間とか無視して当たり前」という誤ったイメージを与えていたと反省している。昨年度末の職員会議でも述べたことだが、私の学年から夕方の課外授業後の自習と土日休日の自習をすべて取りやめたのは、教員の負担軽減ということだけではなく、高校生に対してのメッセージ発信という意味もあった。

 今日2月6日は熊本大学の学校推薦型選抜Ⅱ(共通テスト利用型推薦)なので、面接の練習に来た生徒に岡崎先生の「コロナ禍 増える不登校 教師の疲弊が引き金にも」を読ませて、養護教諭志望の生徒には「児童生徒のみならず、教師の心のケアにも心を配りたいこと」、小学校教員強制課程志望の生徒には「児童生徒だけではなく教師も含めて、学校全体が自己肯定感を持てる雰囲気を作るにはどうすればよいかを大学で研究したいこと」を述べてはどうかというアドバイスをしておいた。果たして大学の先生方に伝わるか?

 熊本大学教育学部の面接試験の内容を見てみると、児童生徒が抱える問題にあなたはどう対応するかといった質問がほとんどだ。大学に入ってから、「面接で尋ねられた問題には、教師としてどう対応するのが正解なのか」は示されているのか気になる。



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『現代思想』2020年4月号 特集「迷走する教育」 [その他]

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 新年度スタート時期に教育関係の特集を組むことが多い『現代思想』だが、4月号の特集「迷走する教育」はここ数年の特集の中でも特に読み応えある内容だった(特集「教育は変わるのか」の一年後の特集が、「迷走する教育」というのがなんとも....)。特に今号は共通テストをはじめとする教育改革が大きく取り上げられており、高校の教師である自分にとっては実にリアルな話である。私は社会系教科の教員なので、他教科の事情はまったく不明なのだが、今号では国語・英語・数学の各教科が抱える問題点が解説されていて、大変興味深かった。

 高大連携とか高大接続とかの改革は、大学入試によって高校教育を変えようとしているが、よく考えたら「入試で教育を変える」というのは本末転倒だし、そもそも大学に進学しない生徒が置き去りにされている。学研からもらった冊子で京都工芸繊維大の羽藤由美先生(本号にも寄稿されている)が、大学入試はその時点における受験者の能力を測定するために行うのであり、能力を育成するため行うのではないと述べていたが、その通りだと思う。新しい学習指導要領は基本的に内容よりも「社会で役立つ人材」の育成が重視されているように思われるが、科目によっては高卒就職者を企業の即戦力にしようとする意図も感じられる。「安い賃金で使うことができる有能な労働者」を育成するイメージである。「役に立つ」の基準が金額で明示されるようになったら、格差はますます増大するのではないだろうか。本号で荒井克弘先生が書いているように(「大学入学共通テストの現在」)、高校で約半分の生徒が授業が理解できていないなか、年齢人口の約6割が大学や短大に進学しているという現状を考えれば、授業理解度の問題をはじめとするミスマッチを改善しない限り高大接続は画餅に帰すように思われる。

 今回の教育改革には、「カネにまつわる話」が多すぎる。教育改革推進協議会とか日本アクティブラーニング協会といった団体に「正規社員をなくすべき」と主張する人材派遣会社の会長が関わったり、産業能率大学という教育学部を持たない経営系学部が主体の大学がアクティブラーニングを声高に進めている点にしっくりこない。最近だと共通テストの採点や英語民間試験に関わっていた民間企業がまるで自分たちが被害者であるかのような物言いをしていたり、さらには「未来の教室」とやらを進める経済産業省の官僚がなぜかアベノマスクに関わっていて、自身のSNSで 「ひとしきり文句を垂れていただいた後は」などと国民を小馬鹿にした表現で自身の手柄を誇っているなど、「終わってる感」ばかり。確かに教育改革はビジネスチャンスではあるのだろうが、だからと言ってそれが教育自体より大きく扱われている現状には、「子や孫の時代に日本は一体どうなっているのか」という不安を禁じ得ない。本号に掲載されている赤田圭亮(給特法)・岡崎勝(いちばん面白かった)・内田良(一斉休校に関するタイムリーな話題)・三浦綾希子(私が個人的に関心あるテーマ)の諸先生方が書かれた文を読むと、教育改革に必要なのは経済学ではなくて、教育社会学じゃないの?と思ってしまう。






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松岡亮二『教育格差』(ちくま新書) [その他]

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 ずいぶん昔のことだが、教え子のひとりが『東大文1―国家を託される若者たち東大文Ⅰ』(データハウス)という本で取り上げられた。彼がピックアップされた理由は、公立高校出身者だったからである。熊本県内では優秀な生徒が最も多く通っているとされる熊本高校から東京大学に合格したという快挙も、全国的な視点からすれば「進度が遅いというハンデを乗り越えて」栄冠を勝ち取ったと見なされるのである。十数年前にある有名私立校の定期考査問題(世界史)を見せてもらったことがある。熊本高校2年生の定期考査問題とほぼ同レベルの問題だったが、その問題はその学校の中学3年生で実施された定期考査の問題だった。

 都市圏と熊本との地域格差はもちろんのこと、熊本県内でも「熊本市内とそれ以外」という居住地域にもとづく「スタート時からの格差」が存在する。2020年3月3日(火)の朝日新聞(熊本県内版)に掲載された「公立校 進む統廃合」と題された記事によれば、2006年に85校あった熊本県内の高校は17年までに76校に減少したが、熊本市内だけに限れば27校という数は1980年代後半から現在まで変わっていない(この間1988年に東稜高校が新設され、2011年に熊本フェイス学院が開新高校と合併して消滅した)。つまり中学卒業後は熊本市内の高校に進学を目指す生徒が多いわけで、実際生徒数をみても熊本県の高校生は2005年の5万8千人から18年には4万8千人に減少したが、熊本市内の高校に通う生徒数は約2万6千~2万7千人とほぼ横ばいである。地方と都市圏のみならず、地方の中でもさらに格差は拡大している。

 では、こうした格差が生まれる要因は何だろうか。3月11日付の熊本日々新聞の読者欄「若者コーナー」で、高校生が「三つの格差を縮めるために」と題して、教育格差に言及していたが、教育格差の原因として「親の収入」をあげていた。なるほど、高い所得の家に生まれた子どもは、塾に通ったり家庭教師をつけてもらったりと、親から様々なサポートを受けられるだろう。実際、「東大生の親の年収は、平均の約2倍」という調査結果もある[https://dot.asahi.com/aera/2012111600016.html]。では親の収入の格差が教育格差の原因だという言説は本当に正しく、他の要因はないのだろうか。また教育格差を縮める処方箋はないのだろうか。こうした疑問から手に取ったのが本書である。

 教育格差の指標として、最終学歴の差を用いている。最終学歴の差は、生涯賃金をはじめ職業や健康など様々な格差の要因につながるからである。本書の前半はデータの冷静な分析となっている。すなわち、最終学歴は生まれ(親の最終学歴や出身地域)という本人には如何ともしがたい要因に左右されるという仮説が正しいことを、統計データの分析を通じて明らかにしている。序章から第5章までのトピックは、以下の通り。

  ・父親が大卒だと、子どもも大卒になる割合が高い。
  ・生活する都道府県が三大都市圏、市町村が大都市だと、大卒となる割合が高い。
  ・教育格差は、小学校入学前から始まる。
  ・公立の小学校であっても、学校間で学力の格差が存在する。
  ・親が大卒だと、中学校教育への親和性が高い。
  ・中学校では公立と私立のみならず、公立間・私立間でも学力格差が存在する。
  ・高校間の学力格差は、親学歴による学力格差に起因する。
  
 以上のトピックはさして目新しいことではなく、私を含め多くの人が漠然と感じていることだろう。しかし重要なことは、その漠然と感じていることをデータを使って「今そこにある格差」として論証してみせたことにある。つまり日本の教育格差は、本人の努力では克服することが難しい「生まれ」に起因しており、しかもその差は幼稚園から高校までなかなか縮小しない。したがって、「不利な状況でも努力で克服できる」「学校の成績が悪いのは、勉強をサボっている本人の責任」という自己責任論はあまり説得力を持たないし、その意味で日本は緩やかな身分社会ともいえる。こうした状況を克服することが、結果的には社会全体の平均値を上げることにつながっていく、と著者は主張しているが同感である。

 教育格差を克服するため、筆者は二つのことを提案している。まずは分析可能なデータを収集して教育政策や改革を検証すること、そしてもう一点は、大学の教員養成課程で「教育格差」を必修とし、どちらかと言えば「勝ち組」であるため格差に気づきにくい教師に現状を把握させることの二点である。あまりに大きな問題に対して、やや対策が小粒な印象も受けるが、では他に何かあるかというと、今の私は対案を持ち合わせていない。2020年3月15日付の熊本日日新聞「くまにち論壇」で教育哲学者の苫野一徳先生(熊本大学教育学部)は、「公教育の構造転換」を提唱している。これまでの「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムから、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換である。確かにこれまでのみんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムでは、小学校入学前から始まっている教育格差は縮まらないだろう。協同化によって、格差は縮まり、またプロジェクト化によって意欲も高まるように思われるが、一方で個別化は格差を増大させるようにも感じる。

 19世紀後半~20世紀初頭の西欧の家庭や家族について述べた文として最も適当なものを、次の ①~④のうちから一つ選べ。
 ① 庶民階級の子供は、学校教育の対象とはされず、読み書きは専ら家庭で教えられていた。
 ② 中産階級の家庭では、夫婦共働きが理想の家庭と考えられるようになった。
 ③ 家庭は、消費と精神的なやすらぎの場から、生産と消費の場へと変化した。
 ④ 中産階級の家庭では、結婚後の女性が家事や育児に専念する傾向が強まった。
                (1998年度 センター試験 世界史A本試験 第2問C )

 
 上の問題における選択肢①は逆で、イギリスでは1870年に自由党のグラッドストン内閣のもとで最初の教育法が制定され、庶民階級の子どもを対象とした初等教育が実現した。上流階級の家庭では家庭教師によって初等教育段階での教育を身に付け、その後イートンやハローなどの伝統的なパブリック=スクール(私立学校)で中等教育段階の学習が行われることが多かったからである。国民の統合が必要となった19世紀には、統一的な読み書き能力や共通の歴史認識が必要となってくる。こうして公教育は国家的な事業となり、国民を育成すると同時に教育格差を是正する役割をも担っていた。現在の日本では、そうした格差を縮小するという公立学校の役割は十分に機能しているとは言い難い。その意味で、Youtubeを通じて日本史・世界史の無料授業を行っているMundi先生など大学受験のための授業を無料配信する取り組みは素晴らしいと思うし、また「高校生の半分は大学に行かないから大学進学のための受験指導に血眼になる必要は無い」という意見は、首肯できるものではあるものの格差を自明のものと考える傲慢さも感じられる。もちろん教育格差は日本だけの状況ではないが(鈴木大裕著『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』岩波書店)、こうした認識を欠いた状態での教育は「優秀である一方で、低賃金でも文句を言わずに働く、金持ちに都合がいい労働者」、つまり格差があるのは仕方ないと諦観した人々を生産しているのかもしれない。そして自分はそれに荷担しているのではないか?と自問するとき、私は慄然とするのである。


著者による解説
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65952

都市と地方の格差
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353




教育格差 (ちくま新書)

教育格差 (ちくま新書)

  • 作者: 松岡 亮二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 新書



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ハンセン病のこと [その他]

 私がハンセン病のことを初めて知ったのは、小学生の頃だった。『少年少女世界の名作 22:フランス編3』(小学館)に収録されていた「ガルガンチュワ物語」に登場するポノクラート博士が、「いっそ、らい病(ハンセン氏病)にかかったほうがましじゃわい」というセリフを口にしていた。その直後だったと思うが、「少年チャンピオン」に連載されていた手塚治虫のマンガ『ブラック・ジャック』にもハンセン病が出てきた。ただ当時はハンセン病という呼称ではなく、「らい」という難しい漢字に「レプラ」というルビが振ってあったように記憶している(現在では修正されているようだ)。就職してから観た映画『ベン・ハー』には、主人公の母親と妹がハンセン病を発症し、「死者の谷」に赴くシーンがあった。最近印象に残っているのは、リドリー・スコット監督の映画『キングダム・オブ・ヘブン』に登場するイェルサレム王ボードワン4世。

 去る6月28日に熊本地裁が出したは、国の誤った隔離政策によって(患者本人だけではなく)患者の家族も不利益を被ったことを認めた重要な判決だった。
 患者家族の苦悩に関して私がいつも思い出すのは、熊本市の黒髪小学校で1954年におこった「龍田寮事件」(黒髪小事件)である。これはハンセン病患者の子どもが小学校に通うことに対して大きな反対運動が起きた事件で、当時は熊本日日新聞でさえ、「(通学賛成の理論は)正しいと思うが、通学には必ずしも賛成できない」と社説で「事実上の反対」を主張している。入学式の日にPTAが掲示した張り紙(Wikipediaに写真がある)を読むと胸が痛むが、当時黒髪小に勤務していた先生によれば「付き添いの保母さん達がみなうつむいているのに、子どもたちは訳もわからず、にこにこしていたのが対照的だった」、と。具体的な学校名や関係者が明白なので、学校の授業で扱うことは難しいが、こうした過去と向き合うことが大切なことだという気がする。

 特効薬プロミンについて。映画監督の宮崎駿氏が関わった 「プロミンの光」 という絵が先日話題になった。が、プロミンにもまた苦難の歴史がある。注射は肉が裂かれるほどの激痛だったという「大風子油」、症状がかえって悪化した「セファランチン」、遺骨が青くなる「虹波(こうは)」....いずれも患者たちを苦しめた薬で、「虹波」は旧陸軍による人体実験だったという説もある。これらの失敗から、患者達は新薬に疑心暗鬼となっていたものの、プロミンが投与された患者の多くには画期的な治癒が見られた。熊本の菊池恵楓園では当初希望者131人から32人が選ばれたそうだが、その劇的な効果を目の当たりにして「プロミンを打ってくれって、注射場の窓にすがって泣きじゃくる女性もいた」という。

 加藤清正が眠る本妙寺の周辺には、かつてハンセン病患者の集落があったが、1940年に患者全員強制収容されたという(本妙寺事件)。本妙寺の参道並ぶ塔頭をまわって当時の話を尋ねてみたものの、ご住職はほとんどが代替わりしていて、詳細を知る方はおられなかった。
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世界史の定期テスト問題 [その他]

 数年前に比べると、最近の『社会科教育』はおもしろい。昔は対象がよくわからない中途半端な記事も多かったが、最近は執筆陣のレベルも上がっており、高校教師向けの記事も増えている。11月号は、「考える力を高める難問・良問チャレンジ40選」という特集。

 以前三城俊一先生が作成された、第一次世界大戦中のイギリスによる多重外交を説明するLINEのトーク履歴画像がホントによく出来ていてに面白かったので、「これは試験問題に使えそう」とツィートしたことがある。
https://twitter.com/hirai_h/status/911495223544487936
 先日、ルイ16世のツイッターアカウントという設定で作成された世界史の定期テスト問題を目にした。中間テストでフランス革命とナポレオンだから、世界史Aであろう(うちは産業革命までだった)。https://pbs.twimg.com/media/DMd017RU8AEYBJt.jpg

 この問題、私はよく出来ていたと思うし、こんな問題を作ってみたいと思っている。細かいツッコミは出ていたが(例えば、「アカウント名はruiではなくlouisに」とか)、それもまた読んでて楽しいものであった。しかし、同業者たる教員からの反応は今ひとつであったのは実に興味深い。教師アカウントが出題者のパーソナリティを主に取り上げて批判しているのに対し、非教師アカウントは問題の形式を肯定的に取り上げている点もまた興味深い。
 ツイッター上で教員(あくまでアカウント主が「自分は教員だ」と言っているだけであり、ツィートしてる人物が本当に教員かどうかは真偽は不明である....実際、「ツイッターなのでどこまでが本当なのか見た方にお任せしてます」とツィートしてる自称教員のアカウントも実在する)が出したコメントをいくつか拾ってみる(わかりやすい表現に変更したものもある)。
 ・テストに受け狙いは不要
 ・授業プリントだったらとてもいい教材
  (テスト問題としては不適切という意味だろう)
 ・起案の時点で教務から却下されそう
  (テスト問題に起案が必要という点に驚いた)
 ・言葉遣いが不適切で、ルイ16世の人格を生徒が誤解する
 ・こういうテストを出題する教員は如何なものか
  (内容よりも教師のパーソナリティに対する批判だと思われる)
 ・学校のレベルに合わせたテストではないか
 ・TPOを間違えている
 ・このテストは次元を超えている(文脈から判断して否定的なコメント)
 ・私立の進学高校だったらクレームが入ってくる

 「生徒視点で見れば楽しいだろうけど、教員目線で見るともう少し考えられなかったのかなと思います。面白いけど!!」というコメントもあったが、私は十分考えられた試験問題だったと思う。「テスト問題としては不適切だが授業プリントならいい教材」という意見には、「え?なんで?逆ならわかるけど?」というのが私の感想。基礎→応用と段階を踏むのが普通だと思うのだが。
 言葉遣いについては「このセリフ調の文面が如何にも生々しくてTwitterらしい」という意見も見られた。おそらく「なう」「w」の表現を指しているのだろうが、私は作成者の場を読む柔軟なセンスを感じている。なお、ツイッターの特性上、過去の事件が新しい事件よりも下に表示されるという点は仕方ないと思う。順序が逆だという指摘については、「流れについては歴史のテストだから順序的にって感じがします。」という意見があり、同意。「学校のレベルに合わせたテスト」「私立の進学高校だったらクレームがくる」は、いちばん不快なコメント。「自称進学校」とか、エリート意識丸出しの言葉を使う教師。

 クオリティが高い問題を作るには、勉強しなければいけない。このルイ16世の問題を例に取ると、ツィートの時点を何年何月にするかとか、アカウント主をルイ16世にするかマリ=アントワネットにするか、はたまたロベスピエールにするか(私はロベスピエールのほうがよかったような気がするが....球技場の誓いにも参加しているので)を検討するだけでも結構勉強になるのではないだろうか。テストが終わって返却するとき、「ホントは画家ダヴィドのアカウント作りたかったんだけど...」とかの話しが出来れば、なおよいように思う。

 今月の『社会科教育』に掲載されている文章の中で、草原和博先生は評価活動を三つに分類しているが、このルイ16世ツイッター問題は、「履修評価」を行う問題に該当すると思われる。少なくとも「悪問」とは思えないが、「立場が変われば良問も変わる」(草原先生)のだろう。

 世界史Aが始まった頃、「歴史新聞をつくろう」という試みがよく行われていた。私も取り組んだことがあり、作成例として提示するため、『歴史新聞』という本も購入した。最近では小中学生の夏休みの宿題にも取り上げられているようで、「夏休みの宿題の定番、歴史新聞のアイデアと作成例」として、NAVER まとめにも出ている。小中学生時代に歴史新聞をつくった経験がある生徒には、ツイッターやLINEといったツールを用いたテスト問題は面白く感じるだろう。今年(2017年)のセンター試験日本史Aでは「妖怪ウォッチ」「ゲゲゲの鬼太郎」が使用され、2015年の神戸学院大の世界史の入試問題では、池田理代子氏のマンガ『女帝エカテリーナ』が使われた。アニメやマンガを使わなくても、試験問題を作ることは可能だが、ではなぜセンター試験や大学入試で使われるのか、もう一度考えてみたい。こうした試験問題に面白さを感じない教師の感覚は、生徒の感覚から遠ざかってしまっているように感じる。

 小田中直樹先生の著作に『世界史の教室から』(山川出版社)という本がある。大学生を対象に、高校時代に受けた世界史の授業についてアンケート調査を行い、さらに調査で名前が挙がった世界史教員にもインタビューを行うという、実におもしろい本だ(ツイッター上で世界史の授業について発言するなら、せめてこの本くらいは読んで欲しいのだが...)。同業者から批判されることよりも、現役高校生や元教え子、保護者をはじめとした「教員ではない人」から支持されることのうほうが、私にとってはずっと大切なことだ。私もこうした「話題になる問題」をつくってみたいものである。


社会科教育 2017年 11月号

社会科教育 2017年 11月号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 2017/10/12
  • メディア: 雑誌



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『現代思想』4月号「特集:教育は誰のものか」 [その他]

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 『現代思想』(青土社)という雑誌がある。私も時々買っているが、私の中では「基本文芸誌」という位置づけであった。昨年は増刊でプリンスの追悼本などを出していたが、95年7月号の、クロード・ランズマンの『ショアー』特集などは、(難解さに)圧倒されたものである。

 さてこの『現代思想』2017年4月号の特集は「教育は誰のものか」。所収の文章はどれも面白かったのだが、中でも岡崎勝さんの文章がいちばん面白かった。私が購読している熊本日々新聞の教育欄で、岡崎さんは「学校のホンネ」というタイトルで月イチの連載を執筆しておられるが、これがたいへん面白い。私が学年主任になって初めて新入生の保護者に話したこと「信頼関係は、お互いが努力しないと成り立たない」ということは、岡崎さんの文章から拝借した言葉である。
 岡崎さんの文章は 「文科省殿、「同情するなら、ヒマをくれ!」~「主体的・対話的な深い憂い」の中で思うこと」というタイトルである。あまりのおもしろさに職場の同僚と話題にしたのだが、現場で思っていることは高校も小学校もまり変わらないのだなと感じた次第(ある先生は、「教育専門の雑誌じゃないから、逆に面白いんじゃ?」と言っていた)。なぜ「おもしろい」のかというと、現場を知る当事者として頭の中で漠然と思っていたことが、文章として言語化されているからである。もっとも「おもしろい」などと言っていられるのは、私がかなり時間的余裕があるからかもしれない。ある先生(美術)から「先生の一日は48時間くらいあるんじゃ?」言われたことがあるが、一生懸命やってるふりして手を抜くのは、社会人として必要なスキルだと思う。

 今日(4月6日)の新聞に掲載されていた岡崎さんの「学級開き「楽しい」の第一印象を」も面白かったが、その隣に掲載されていた「主体的・対話的で深い学びの実現のためには、意欲を高める学級集団づくりが重要」という文章を読んだら、「確かにそうなんだろうけど、そう言われても....」と密かな反発を覚えてしまった。
 
 子どもの貧困など『現代思想』には、最近の教育現場の話題はほとんど取り上げられているが、部活顧問の問題は私が勤務する大規模な公立高校でも深刻になりつつある。体育系部活の顧問のなり手がいない。ウチの学校では体育の先生が8名おられるが、それでも足りない。部によっては、顧問に研修会出席などの義務を課す種目のあるので、かなり大変。私が時間的な余裕があるのも、部活の顧問が「体育の先生の補助」だからである。「高校の体育の先生は(生徒指導も期待されるため)たいへんだ」というのが私の感覚。
 では部活をなくせばいいかというと、そう簡単でもない。いま私が勤務してる熊本北高校はいわゆる「進学校」とされる学校で、一週間のうち三日間は7限授業プラス朝7:35からの課外授業は事実上強制である。月に一度は土曜授業があり、これに模試が加わることもある。下校時間は夏場で7:30分、朝練は3年前に自主練習として解禁された(やってるのは吹奏楽部だけだが)。したがって顧問の役割は、「短い時間でいかに効率的な練習をコーディネートするか」である。こうした条件で野球部は県大会ベスト4、陸上部やテニス部はインターハイ・国体に出場しており、体育系の部活動には「意識高い系」の生徒が多い(部活に加入するかしないかは自由だが)。 彼らはよく気が利く。数年前まで入学式・卒業式の準備は、「○年生の各クラスから15名」だったが、野球やラグビー、陸上など体育系の部活生に設営してもらうようにしたところ、かかる時間はそれまでの半分になった。先日、新入生の物品購入の日、校内にはいってきた保護者の自家用車の交通整理をやってくれたのも彼らだ。「そういう日本的体育会的独特の雰囲気がイヤだ」とう気持ちも理解できるが、少なくとも現在私が勤務している学校では、体育系の部活をなくすということは考えられない。 顧問の負担と生徒の要望を勘案し、それぞれの部活の保護者会と話し合いながら、ギリギリでやっているのが現状である。


現代思想 2017年4月号 特集=教育は誰のものか ―奨学金・ブラックバイト・学校リスク・・・―

現代思想 2017年4月号 特集=教育は誰のものか ―奨学金・ブラックバイト・学校リスク・・・―

  • 作者: 斎藤美奈子
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/03/27
  • メディア: ムック



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ミュシャ展 [その他]

 国立新美術館で開催されているミュシャ展を見てきた。これまで私がミュシャに抱いていたイメージといえば、オレンジかかった色彩で豊かな髪の美しい女性の絵。そして、「ロンドンのピアズリー」「ウィーンのクリムト」「パリのミュシャ」が、私にとっての世紀末三種の神器であった。しかし、この展覧会は私がミュシャに抱いていたイメージを一変させる素晴らしい展覧会だった。

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 今回の展示会における目玉は、連作「スラヴ叙事詩」20展がすべて展示されていることにある。これまで私がミュシャに抱いていたイメージを一変させる、重厚さ、暗さ、大きさに圧倒された。連作「スラヴ叙事詩」は、ミュシャがスラヴ民族の歴史や神話などを題材に描いた一連の作品である。これまで私は、ミュシャはフランス人とばかり思いこんでいたが、彼は現在のチェコ出身のスラヴ系であった。したがって、Muchaの発音はチェコ語だと「ムハ」もしくは「ムッハ」となるらしい。
 会場内が混雑している理由の一つは、作品群の大きさにある。近づき過ぎると全体が見えないため、作品の近いところには人がいない。多くの観客は離れて全体を鑑賞しようとするため、会場内はとても混雑していた。細部を見るには望遠鏡があると便利。
 驚いたことに、「スラヴ叙事詩」の一部は写真撮影可であった。「原故郷のスラヴ人」は残念ながら撮影不可だったが、特に印象に残ったのは「ロシアの農奴制廃止」。1861年に発布された農奴解放令を題材にした作品だが、明るさと暗さ、希望と不安が同居しているような奇妙な感覚の作品である。右上の陽光と左下の暗い表情の人々とのコントラスト。こちらを見つめる不安げな母子の表情にひかれ、人の波をかきわけスマホのシャッターを切ったものの、手ブレでよく撮れていなかった。この作品が完成したのは第一次世界大戦がはじまる1914年だが、その前年にロシアを訪れたミュシャは人々の悲惨な生活を目の当たりにしてこの作品を描いたという。

 ビザンツ帝国、神聖ローマ帝国、オスマン帝国、ドイツ騎士団VSリトアニア=ポーランド(ヤゲウォ朝)連合軍、ベーメンのフス、オーストリア=ハンガリー帝国の解体とチェコスロヴァキアの独立など、世界史の知識があるとより楽しめる.....と言うよりも、知らないと「スラヴ叙事詩」に描かれている内容がわからないと思うのだが。ミュシャ展にあれだけの人が集まっているのだから、高校世界史の授業ももう少し人気が出るような工夫をしていきたいものである。
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水俣病公式確認から60年 [その他]

 熊本日々新聞は昨日まで熊本地震にともなう特別編集の紙面でした。昨日までは最終面が生活関連情報でしたが、今日の紙面から最終面はテレビ・ラジオ欄となっています。熊本市内でも、明日から再開される学校もあり、復旧が進んでいることを実感します。もちろん、まだまだ時間はかかることでしょう。

 地震に気をとられてすっかり忘れていましたが、今日は水俣病の公式確認からちょうど60年の日です。熊本日々新聞の別冊特集「水俣病公式確認60年」を見て思い出しました。「坂本しのぶさんの60年」という特集を読み、熊本県の学校に勤務する者の一人として、水俣病について自分自身がもっと知り、そして伝えていく必要があると改めて感じています。
 私が坂本さんのことを知ったのは、ユージン・スミス、アイリーン・スミス夫妻の『写真集 水俣 MINAMATA』(三一書房)でした。この本には、アイリーン氏が中学生のころの坂本さんとふれあった日々の記録が綴られています。坂本さんのお母様も、存命であられると今日の新聞で知り、感慨深いものがあります。
 『写真集 水俣』は私の父が購入した本です。最後のページには、母の字で、購入した時期と父の名が書いてありますが、購入は昭和53年3月とあります。写真集という体裁ではありますが、ドキュメンタリーといってもよいでしょう。今日改めて読み返してみたが、現在でも十分なインパクトをもっています。

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 この本には、よく知られた写真が掲載されています。胎児性水俣病の少女と、彼女を抱きかかえて入浴する母の写真です。あばら骨が浮き出し、目を大きく見開いた胎児性水俣病患者の少女と、彼女を慈愛に満ちた表情で入浴させる母親。痛々しさと救いが交錯するかのようなモノクロームの写真は、かつて社会科の教科書や資料集に掲載されていたこともあり、見たことがある人も多いのではないでしょうか。ですが、現在は目にすることはありません。十数年前、両親の申し出によりアイリーン氏はこの写真を封印したからです。
 私がこのことを知ったのは、今から10年前、熊本日々新聞の特集「水俣病公式確認50年~写真家たちの水俣」に掲載された、アイリーンさんのインタビューでした(平成18年10月6日付)。少女(撮影から6年後に亡くなる)のご両親は「もう休ませてあげたい」と仰ったそうですが、親御さんの気持ちを考えれば、自分の娘の裸姿が、「公害の告発」を目的にしているとはいえ、いたるところで使われるのは忍びないことでしょう。こうした「今は見ることができない写真があって、どうして見ることができなくなったのか」という点は、水俣病問題の深さを示していると感じます(ネット上では見ることができるという問題点は、別の問題提起にもつながりそうです)。
http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_jp/aboutus/interview.html

 
ユージン・スミス氏は、『LIFE』の特派員として第二次世界大戦中は戦地に赴き、重傷を負いました。彼の写真が載ってないか....と『LIFE AT WAR』の頁をめくると、彼が撮影した3枚の写真を見つけました。 そのうちの1枚、サイパン島で撮影された米兵の写真~唯一の生存者である赤ん坊を抱いている写真は、後に彼が水俣で撮影した「入浴する母子」の写真を思い出させます。

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 「入浴する母子」と並んでもう1枚、水俣関係で私の印象に残っている写真があります。昨年亡くなった塩田武史さんが撮影した、白い鳩を抱いた少年の写真です。被写体となったのは、胎児性水俣病患者の半永一光さんで、半永さんが白い鳩を抱き、満面の笑みを浮かべている写真です。この写真は塩田さんの『僕が写した愛しい水俣』(岩波書店)の表紙にも使われている写真ですが、生きる喜びというものがこれほどストレートに伝わってくる写真は、なかなかないと思います。石牟礼道子さんの『苦海浄土』には、言葉を発することができない杢太郎少年に、彼の祖父「爺」が話しかけるという場面がありますが、この杢太郎少年のモデルは半永さんだということです。昨日(4月30日)、たまたま読んだ読売新聞に掲載されていた半永さん兄弟の記事を読み、鳩を抱く少年の写真を思い出したことでした。 


 水俣病やハンセン病患者の方々をはじめ、戦争や差別などあらゆる困難に直面している方々の苦痛や悲しみを本当に理解しようというのは、おそらく不可能なことでしょう。しかし、理解しようとする努力は必要なのではないでしょうか。いま私が感じているのは、「東北の震災は、どこか人ごとだった」という悔恨です。4月23日の熊本日々新聞によれば、一昨年5月に、熊本市の防災会議で今回と同程度の規模の地震発生が予測されているという記事を掲載していた....とあります。私はまったく記憶にありません。東北の震災関連の報道を目にして津波の恐怖に唖然とし、数々の悲劇に涙し、普通に暮らしている自分に後ろめたさをおぼえつつも、心のどこかで「熊本でこんな地震が起きるはずはない」と「勝手に頭の中でカベをつくっていた」気がします。被災の現実を目にし、耳にするにつけ、事態の深刻さに天を仰ぐばかりです。



写真集 水俣

写真集 水俣

  • 作者: W.ユージン スミス
  • 出版社/メーカー: 三一書房
  • 発売日: 1991/12
  • メディア: 大型本



MINAMATA NOTE 1971-2012  私とユージン・スミスと水俣

MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣

  • 作者: 石川武志
  • 出版社/メーカー: 千倉書房
  • 発売日: 2012/10/25
  • メディア: 単行本



僕が写した愛しい水俣

僕が写した愛しい水俣

  • 作者: 塩田 武史
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2008/02/27
  • メディア: 単行本



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地歴・公民科研究会 [その他]

 今年の会場は玉名高校。来年創立110周年を迎えるという伝統校で、校舎にはいると、窓枠や、壁、照明器具などに歴史を重ねた風格を感じる。福岡の明善高校に近い雰囲気。校舎は、噴水が綺麗な前庭および正門とともに有形文化財だそうだ。資料室の展示物も興味深い。 何度か一緒に仕事をさせてもらったK先生の世界史(2年生)を見学。ちょうど、ウチと同じ部分(唐代)だったので、興味深く見ることができた。
 世界史分科会の講師は、東海大学の奥山甚一先生(総合経営学部長)。奥山先生はスリランカの社会経済がご専門で、演題は「スリランカ-カレーから民族問題まで」。スリランカのカースト制度をはじめ、あまりに面白くて1時間ではとても時間が足りない。驚いたのは、スリランカコーヒー。オランダ統治時代、茶ではなくコーヒーが栽培されていたそうで、140年ほど前には世界第3位のコーヒー豆生産国だったとのこと。確かにオランダ支配下にあったインドネシアのトラジャコーヒーは有名。好評だったのは、先生ご持参のスリランカカレー。「ラ・サナイ」というスリランカカレーを出してくれるお店から直接持ってきていただいた。チキンカレーは絶品で、「辛い、美味い!」。阿蘇でインド人シェフが経営してる「アソバラウ」のカレーも美味しいが、これもいい。
 全体会の講師は、熊日新聞の論説委員である山口和也氏。話を聴いているうちに「ああ、あの記事を書かれたのがこの方か!」と当時を思い出すことしきり。今日うかがったことのほとんどを覚えていることに、自分でもちょっとビックリ。オフレコに近い取材現場の裏話は実にスリリングで、なかでも建設業界談合現場潜入の話は手に汗握るおもしろさ。なかでも談合の情報ソースは、低コストで高い技術力を持つ会社だったというのは興味深い。つまり、「談合がなければ絶対ウチが受注できる」という自信がある会社だということ。なるほど、合点がいった。業界団体というのは、まさしくヨーロッパ中世都市における同職ギルド(ツンフト)なのである。自由競争を排して、ギルドメンバーの共存共栄をはかり、消費者の利益とは相容れない団体。今日聴かせてもらった取材現場の話は、特別にディープな話ばかりで、おそらく日々の作業は地道な取材の繰り返しなのだろう。学問の研究作業と同じではないか。敏腕記者のイメージとは違って語り口も穏やかで、「ジャーナリストの正義とは」といった大上段に振りかぶらないところが、逆にカッコいい。上善は水のごとし。


 国府高校のT先生(娘さんは熊高での教え子)に誘われて、M先生との3人で玉名ラーメンを食す。その話はFacebookにて。来年は北高が会場。



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