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ナショナリズムにもとづく二つの動き2 [大学受験]

昨日の問題の解答例と加点ポイントです。

フランス革命やロマン主義の影響下で生まれたナショナリズムは、19世紀初めイタリアのカルボナリやドイツのブルシェンシャフトの運動などに見られたが、いずれもウィーン体制のもとで鎮圧された。しかし1829年にギリシアがオスマン帝国からの独立を達成すると、1830年の七月革命の際には、オランダからベルギーが独立し、ポーランドでもロシアからの独立運動がおこるなどナショナリズムが高まった。1848年の二月革命では、オーストリアでチェック人やコッシュートに指導されたマジャール人の独立運動が起こる一方、ドイツでは統一を目指してフランクフルトで国民議会が開催された。またポーランド、イタリアでも独立運動がそれぞれ起こった。こうしたナショナリズムの高揚は、国民国家建設の気運を一層強め、サルディーニャ王国を中心に統一をすすめたイタリアでは、1861年にイタリア王国が成立した。ドイツではプロイセン王国を中心に統一がすすめられ、1871年にドイツ帝国が成立した。この間プロイセンに敗北してドイツの統一から除外されたオーストリアは、領内のマジャール人に自治を認め、オ-ストリア=ハンガリー帝国となった。19世紀はじめにイギリスに併合されたアイルランドは根強い独立運動を展開していたが、19世紀を通じて自治要求が高まり、19世紀後半にアイルランド自治法が提出されたが成立せず、独立運動はいっそう激化した。(580字)


【加点ポイント】
・フランス革命とロマン主義の影響でナショナリズムが生まれる        2点
・19世紀はじめ、イタリアのカルボナリやドイツのブルシェンシャフトの運動  3点
        (イタリア・ドイツがない場合は減点)
・オスマン帝国からギリシアが独立                     2点
        (「オスマン帝国から」がない場合は減点)
・七月革命時、オランダからベルギーが独立、ポーランドの独立運動      3点
       (「オランダ」がない場合は減点)
・二月革命時、コッシュート指導によるマジャール人(ハンガリー)の独立運動 3点
・ 〃   、ドイツにおけるフランクフルト国民議会            2点
・1861年、サルデーニャを中心にイタリア王国成立              3点
    (サルデーニャの代わりに他の語句でも加点)
・1871年、ビスマルクの指導によるドイツ王国成立 2点
    (年号の代わりに他の語句でも加点)
・普墺戦争後、マジャール人に自治を与え、オーストリア=ハンガリー帝国が成立 3点
・アイルランド自治法が成立しなかったアイルランドで独立運動激化      2点

〈以下の記述にも加点〉※上限は3点
オスマン帝国支配下のバルカン半島では、パン=スラウ主義の高まりとも相まって露土戦争を契機にルーマニア・セルビア・モンテネグロが独立した。
その他、スラヴ民族会議(二月革命時)やグラッドストンによるアイルランド自治政策など。




さて、次の問題は一昨年校内模試用につくっておいたものの、転勤によりボツになった問題です。

 1877年にインド帝国が成立し、インドは完全にイギリスの植民地となった。しかし20世紀にはいると、インドにおける反英運動は活発化し、自治や独立を求める運動が高まった。1900年代から1930年代半ばまでのインドにおける民族運動の動きを、以下の語句を用いて600字以内で説明せよ。以下の語句は、文中で最初に使用した箇所に下線をひくこと。

 日露戦争   カルカッタ大会 ラホール大会  ネルー  「非協力運動」
 第一次世界大戦

【解答例】
イギリスはインド人を支配に協力者とするため、1885年に親英的なインド国民会議を発足させた。20世紀にはいり民族運動が高まると、イギリスは1905年にベンガル分割令を発して運動の分断をはかった。これに対して国民会議派は、日露戦争における日本の勝利の影響もあり、急進派のティラクの指導のもと反英運動を展開し、1906年のカルカッタ大会では英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育の4綱領を決議して、イギリスに対する対決姿勢を明確にした。ヒンドゥー教徒主体の国民会議に対し、ムスリムは運動の分断をはかるイギリスの政策にそって、親英的な全インド=ムスリム連盟を結成した。その後運動は沈静化したが、第一次世界大戦後に民族自決の動きが高まると、反英運動は再び高まりをみせた。イギリスが戦後の自治の約束を守らなかったばかりか、1919年にインド統治法やローラット法を発したことにインド民衆は反発し、「非協力運動」を説くカンディーを指導者として反英運動を展開した。その後民族運動は一時停滞したが、1920年代後半から再び活発化し、国民会議派は急進派のネルーらの指導で1929年のラホール大会においてプールナ=スワラージを決議した。30年代から再びガンディーも民族運動に復帰したが、イギリス側の弾圧とムスリム・ヒンドゥー両教徒の対立などにより運動は停滞し、35年に発表された新インド統治法も自治とはほど遠い内容であった。(593字)

【加点ポイント】
・発足当初の国民会議が親英的であったこと 2点
・ベンガル分割令を契機に民族運動が高まる 2点
・急進派ティラクの指導 1点
・4綱領 すべて書けて  3点
・親英的な全インド=ムスリム連盟の結成 2点
・第一次世界大戦後、イギリスが自治の約束を守らなかったこと 2点
・1919年のインド統治法 1点
・ローラット法     2点
・ガンディーの活躍   1点「
・プールナ=スワラージ 1点
・新インド統治法  1点
・運動停滞の理由として、ヒンドゥー・ムスリムの反目 1点
・指定語句の使用 各1 6点

その他
 アムリットサール事件、英印円卓会議など




 明後日から国公立大学の前期日程試験で、今日でようやく直前授業が終了。毎日連続2コマで、加えて小論文の指導を4人抱えていたので結構疲れました。今年世界史の論述で受験するのは2名。二人とも合格してほしいものです。
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