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私が今住んでいる場所は、旧日本陸軍の施設の敷地だった [その他]

 今私が住んでいる所は「昔は軍の飛行場だった」とは耳にしていた。また一年ほど前、熊本日々新聞の「わたしを語る」で、日本舞踊家の藤間富士齋さんが「菊池の特攻基地にも慰問した」という記事を読んだこともあって、花房飛行場については関心をもっていた。そして今年の9月にこの飛行場で使われていた給水塔が、菊池市の有形文化財の指定を受けたということで、一度見てみたいと思っていたが、正確な場所が不明だった。折良く、地元の「花房飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」の方々が、見学会を行うということで参加してきた。

 国道387号線をはさんで、東側が花房飛行場(正式には陸軍菊池飛行場)、西側が菊池通信教育隊の跡地である。驚いたのは、私が家を建てたところが飛行場ではなく、通信教育隊のもと敷地内で、家のすぐわきに教育隊基地のトイレがまだ残っていたこと。また以前から、不自然な場所に防火水槽がいくつもあることを訝しく思っていたのだが、これらはすべて教育隊の施設としてつくられたものであった。

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文化財に指定された給水塔。かつて花房台地の地下水を貯水していた。米軍の機銃掃射の痕が至る所に残っている。戦後は富の原地区に生活用水を供給し、なんと2007年まで使われていたという。案内をしていただいた菊池市立菊池南中学校の先生は、「子どもの頃はよく上って遊んでいた」という。現在は、毎日地元有志の方々が点検やパトロールを行っている。


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飛行機の格納庫のあと。至る所、機銃掃射の痕が生々しく確認できる。


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機銃掃射の痕。



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燃料倉庫。同行していただいた当時を知る方によれば、燃料はドラム缶で野積みだったので、弾薬庫だったのでないかという。最近まで住居兼倉庫として使用されていた。現在の所有権者が重機を使って解体を試みたが、あまりに頑丈で壊せなかったそうである。菊池川からとった石がコンクリートに混ぜられているとのこと。


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現在も倉庫として使用されているもと倉庫と、その中に残っている、当時のもと思われる書き込み。

 もと飛行場あとの地域では、至る所に当時のコンクリートが残っている。軍用で丈夫なため、除去できないらしい。もっとも最近は、アパートなどの建設で、なくなるものも多いとのことであった。


 給水塔が文化財指定を受けたことで、「平和と養生のまち」をテーマに地域づくりをしていきたいということである。先日地元の熊本日々新聞で紹介された、県立菊池高校の社会同好会も先生と生徒が参加していた。

 昨年大分県立博物館に行ったとき、宇佐市では掩体壕など戦争遺跡を保存する活動がさかんであるという話を学芸員の方からうかがった。私が住む地域でもそうした活動が行われており、自分が住む地域の歴史を目の当たりにすることができ、たいへん有意義であった。




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