元寇の授業の続き [授業ネタ]
杉山氏のインパクトについてもう少し詳しく整理しておきます。元寇を扱った授業で、伝統的な見方にもとづく典型的な授業は「東アジアの民族の抵抗の中で」(千葉県歴史教育者協議会日本史部会編『日本史100時間』あゆみ出版、1985年)でしょう。その構成は、①フビライの国書を「恫喝」ととらえさせる、②朝鮮で三別抄の乱が起こったことに気づかせ、結果として明確な返事をしない日本に6回も使いを送っているのは、三別抄によって日本遠征が遅れることになったととらえさせる、③南宋に対する元の征服活動が二度目の遠征を延期させ、日本に十分準備する時間を与えたととらえさせる、④結果として、「東アジアの民衆の抵抗が日本遠征を延期させ、防戦準備の期間を日本に与え、再度の遠征を中止させた」と結論づける、というものです。
これを『日本の時代史9・モンゴルの襲来』(吉川弘文館)において杉山氏が執筆した部分から検討してみましょう。まず①については、「現在では、国書そのものは通交を求める穏やかなものであったが、受け取った日本側、とりわけ軍事を専職とする鎌倉幕府の目には末尾の一句が気になった可能性も捨てきれない、との理解が妥当なところだろう。」という解釈になっています。次に②については、「モンゴル侵攻軍は、手に入れたばかりの海軍が失われるのを、何よりも恐れた」ため早々に撤退したのであり、文永の役は、モンゴルの常套手段である「様子見というか、日本軍の実力を瀬踏みした」と分析されています。また③については、東路軍には食糧がなく、武器よりも農機具を携帯して集団移民をめざした江南軍には実戦力がない有様で、台風が来なくとも現実には間もなく撤退を余儀なくされていた、ということです。確かに4千艘、十数万の人間が長期間海面に浮かんだままにいることは不可能でしょう。中国史家である愛宕松男氏の「元寇は日本にとってそれこそ未曾有の国難であったが、元朝にしてみれば、結果のいかんにかかわらず、それほどたいした事件ではなかった。世祖朝の政治、経済は、この失敗のためになんらの衝撃を受けることもなかったのだから。」という指摘のほうが首肯できます。つまり元寇をアジア全体のスケールで見ることは重要なことではありますが、それは「極悪野蛮なモンゴル人の侵略を受けた諸民族が、一致して抵抗した結果撃退できた」のではなく、「征服した南宋の職業軍人を体よく処分するため」という視点から、授業を構成したほうがいいでしょうね。というのも、④について、三回目がなかったのは「東方三王家の反乱」が起こっていたからです。杉山氏は、三回目がなかった理由として旧南宋領江南での反乱やベトナムなどでの反乱をあげるのはおかしいと指摘しています。その理由として、江南では反乱があっても1286年までは遠征準備が継続されていたこと、チャムパーや安南への遠征と日本への遠征を行う部隊はまったく別であること等があげられています。
とまあ従来の見方に大きく変革を迫る杉山氏ですが、「最後の授業」のように大きく変化するのでしょうか?
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