アフガーニーとパン=イスラーム主義 [モノ教材(切手)]
【2000年度 センター本試験 世界史B 第2問B】
19世紀のイスラム世界は,ヨーロッパ諸国の軍事的進出の対象となる一方,内部にも深刻な社会問題を抱えていた。1838年にイランに生まれた*アフガーニーは,イスラム教に基づく連帯,信徒の自己変革,イスラム国家の専制政治への反対を唱え,社会を改革してヨーロッパ諸国に対抗しようとした。彼は,⑤1871~79年のエジプト滞在時に,言論活動を通じてイスラム改革運動に影響を与えた。また,インド滞在後の⑥1880年代半ばにフランスでアラビア語の政治評論誌を発行し,東南アジアまで広くイスラム教徒に思想的影響を及ぼした。そして,イラン,ロシアなどを転々とした後,⑦1897年にイスタンブルで没した。
*アフガニスタン出生説もある。
問5 下線部⑤に関連して,この前後の時期のエジプトについて述べた文として波線部の誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
① ムハンマド=アリーの子孫が,オスマン帝国スルタンの宗主権の下で,スーダンと併せて統治していた。
② スエズ運河の建設やその株式の保有をめぐって,ドイツによる財務の管理を受けるようになった。
③ 1881~82年にアラービー=パシャが民族主義的な反乱を起こしたが,鎮圧された。
④ 1882年にこの国を事実上の保護国としたイギリスからの独立を求める運動は,第一次世界大戦後まで続いた。
問6 下線部⑥に関連して,1880年代のフランスの対外関係について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
① ドイツにアルザス・ロレーヌを割譲した。
② アルジェリアに派兵し,植民地化に着手した。
③ チュニジアを保護国化した。
④ アロー戦争で中国に派兵した。
問7 下線部⑦に関連して,この年のオスマン帝国で実施された人口調査によると,イスタンブルの人口は90万人余りであり,その宗教・宗派別割合は次の図のとおりである。図中の( a )に入れる宗派の名として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
③ ギリシア正教会 ④ ネストリウス派
エジプトで1967年3月22日に発行された、アフガーニー(Gamal El Dine Al Afghani :1838/39~97)の切手です(アラブ宣伝週間)。Yahoo!のオークションで30円でした。
彼はイランのアサダーバード出身といわれていますが(彼はアサダーバーディーとよばれることもある)、スンナ派・シーア派の枠を越えた活動を展開するため、アフガニスタン人と自称したようです(アフガニスタンではイラン人と自称しています)。彼はインド大反乱(1857年)前後にはインドに滞在しています。この時期のインドに滞在したことは、ヨーロッパ勢力の脅威を実感したという点で、彼の行動の原点といってもいいでしょう。 その後アフガニスタンからイスタンブル、そしてカイロへと移りますが、エジプト滞在(1871~79)の時期には、後にウラービー運動の中心となる指導者たちに大きな影響を与えました。その後ヨーロッパにわたり、1884年にはパリで政治評論雑誌『固い絆』を発刊(東書の教科書には、アフガーニーの顔が描かれた『固い絆』の表紙が掲載されています)、帝国主義に対抗するイスラーム諸国の連帯、すなわちパン=イスラーム主義を主張します。この『固い絆』の発行には、ウラービー運動に参加して国外追放となったエジプトのイスラーム神学者、ムハンマド=アブドゥフ(1840~1905)も参加していました。そして1880年代末にはイランに赴き、同地での活動はタバコ=ボイコット運動の契機となりました(タバコ=ボイコット運動については、『近代イスラームの挑戦』中央公論社の291頁以下が詳しい)。イランを追放された彼は、今度はオスマン帝国に招かれます。ミドハト憲法を停止したことで知られるアブデュル=ハミト2世(位1876~1907)は、西洋諸国の進出に苦しみ、自らの権威を維持するためにパン=イスラーム主義を利用しようとしたと思われます。しかしオスマン帝国の支配からの自立をはかるパン=アラブ主義の高まりもあり、彼は幽閉されイスタンブルで死亡しました。喉頭ガンで死亡したという説や、処刑されたという説、さらには毒殺されたとも言われます。その死まで、謎めいた人物でした。
アブデュル=ハミト2世が、パン=イスラーム主義を宣伝するために派遣した軍艦が、エルトゥールル号です。この船の航海したコースをたどると、ちょうどイギリスの植民地や保護領の港市をつないでいることがわかります。つまり、イギリス支配下にある地域のムスリムに対する示威を意図した航海でした。アジア各地では、多くのムスリムの大歓迎を受けたようです。エルトゥールル号は明治20年(1887)の小松宮彰仁殿下がトルコを訪問したことへの返礼と海軍の練習航海、そして日土条約締結を目的として日本にやってきました。1890年6月のことです。ところがこの老朽化した木造フリゲート艦は、三ヶ月後に日本を発ってまもなく和歌山県沖で台風のため遭難、沈没してしまいました。この時の生存者に対する日本側の好意は、その後の日土友好の礎になったと言われています。
彼の活動で思い出されるのが、2003年の東大第1問です。
私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに往きかうだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。
歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えばロイター通信社は、世界の情報をイギリスに集め、大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で、世界中で共有される情報や、交通手段の発展によって加速された人の移動は、各地の民族意識を刺激する要因ともなった。
運輸・通信手段の発展が、アジア・アフリカの植民地化をうながし、各地の民族意識を高めたことについて、下記の9つの語句を必ず1回は用いながら、解答欄(イ)を用いて17行以内で論述しなさい。
スエズ運河 汽船 バグダード鉄道 モールス信号 マルコーニ
義和団 日露戦争 イラン立憲革命 ガンディー
問題の要求にある「運輸・通信手段の発展が、各地の民族意識を高めたこと」の例としてイスラーム改革運動の広がりです。19世紀後半に汽船の時代が到来すると、メッカの巡礼者を通じてパン=イスラーム主義の思想が広まり、その際『固い絆』のようにパリで発刊された雑誌が、イスラーム世界全体に影響力を持つようになったわけです(東京書籍の『世界史B』には、19世紀にイスラーム世界に印刷術が普及し、新聞や雑誌がさかんに発行され、ムスリムが全イスラーム世界規模で意見を交換するようになったことが述べられています)。 西欧の進出に直面したアジア・アフリカ諸国の中で、宗派や民族を越えたムスリムの連帯を主張したアフガーニー、エジプト出身ではない彼の切手が、エジプトで発行された点にこそ大きな意味があるような気がします。
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