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唐から清に至るまでの徴税・労役制度の変遷(筑波大、2006年) [大学受験]

 中国史上の唐から清に至るまでの徴税・労役制度について,以下の語句を用いてどのような変遷が見られたかをまとめなさい。


 両税法  魚鱗図冊  地丁銀  租庸調  一条鞭法



 今日生徒がもってきた答案は、「徴税制度の変遷」については書けていましたが、「労役制度」の言及が不十分でした。現在では「国家によって強制される労働」というのがないので、ピンとこないかもしれません。

 労役というのは労働奉仕のことで、(誰に対する奉仕か、何をするかなど差異はありますが)形態だけみれば西ヨーロッパ中世の荘園制度における賦役に近いものがあります。唐代の租庸調の庸(中央政府関係の労働)や雑徭(地方での労働)はこの労役なので、唐代については租庸調だけでなく雑徭にも触れなければなりません。

 均田制では「一人あたりの土地の面積はみな同じ」はずですから、租庸調制は「成年男子一人ひとりに対して一律均等の課税」でした。しかし両税法になると、「家(戸)ごとに財産に応じた課税」になります。そこで職役とよばれる労役(たとえば物資の運搬など)が個人ではなく、戸単位で割り当てられるようになりますが、この負担も農民にとって極めて重いものでした。そこで宋の王安石は、こうした労役の負担を軽減するために募役法を制定したのです。差役などに触れる必要はありませんが、「労役制度について」問われているのですから、「宋代には農民の労役負担を軽減するため、王安石が募役法を制定した」くらいは、王安石の募役法に触れておくべきでしょう。

 さらに明では、両税法のもとでも成年男子に労役を課すため、賦役黄冊がつくられます、戸籍を作成し、各戸における丁男を捕捉するためです。一条鞭法では労役も銀に換算されたため、この時点で労役はなくなりますが、人頭税という形で残りました。これがなくなるのが、清代の地丁銀です。

 この問題では、徴税方法変化だけでなく、租庸調→両税法、両税法→一条鞭法という変遷の背景や、1994年に千葉大で出題された問題のように、課税の原則の変化にも触れることができれば、もっとよいと思います。


 唐代末期に楊炎の提言を受けて導入された新たな徴税制度は、それ以前の税体系とは異なる課税原則に基づいて行われた。税体系の変化は、国家が課税対象としての人、及びその保有する富をどのように捕捉するか、といった方法論の変化でもあり、国家支配の原理的側面の変化を示す指標であるとも考えられよう。唐代末期以降に出現した新たな税体系は、その課税原則・徴税方法においてどのような国家支配の変質を反映するものであったか。以上の二点について、その税法の名称とともに三百字以内で述べなさい。 (千葉大・1994)
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