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今年の東大の問題 [大学受験]

第1問はこんな問題。

 近年、13~14世紀を「モンゴル時代」ととらえる見方が提唱されている。それは、「大航海時代」に先立つこの時代に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を統合したことによって、広域にわたる交通・商業ネットワークが形成され、人・モノ・カネ・情報がさかんに行きかうようになったことを重視した考え方である。そのような広域交流は、帝国の領域をこえて、南シナ海・インド洋や地中海方面にも広がり、西アジアや北アフリカ、ヨーロッパまでを結びつけた。
 以上のことを踏まえて、この時代に、東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域において見られた交流の諸相について、経済的・および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を1度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお、( )で並記した語句は、どちらを用いてもよい。


ジャムチ  授時暦   染付(染付磁器)  ダウ船   東方貿易  博多
ペスト(黒死病)  モンテ=コルヴィノ



さほど難しくはないかな....という第一印象で、さっと書き上げたのが次の文章。「博多」と「染付」をどう使うか。「ペスト」はマクニールの説を踏襲。


交易を重視したモンゴル帝国はジャムチとよばれる駅伝制を整備し、元代には海路も整備されたことからユーラシアの東西をむすぶ交流が活発化した。この結果、経済的交流では、ダウ船を用いたムスリム商人による交易が活発化し、なかでも紅海とインド洋を結ぶ交易に従事したカーリミー商人の活動によってヨーロッパでは東方貿易が活発化した。これにより地中海を通じてヨーロッパの銀とアジアの香辛料や絹織物が交換された。イスラーム世界からもたらされた顔料を使用して中国でつくられた染付は、また西方に輸出された。日本は元寇後に博多などを通じて日元貿易を行った。文化的交流では、モロッコ出身のムスリム旅行家イブン=バットゥータ、大都でカトリックを布教したモンテ=コルヴィノらが中国を訪れ、イスラーム暦の影響を受けた授時暦が元朝で成立した。逆に中国絵画の技法はイスラーム世界に伝わり細密画の流行を見た。このような交流によって、アジアの病気であるペストが14世紀にヨーロッパで大流行する事態も起こった。


.....430字くらいしかない....ダメですね。あと最低でも150字は加えないと。



1994年の東大の問題です。

 13世紀は「モンゴルの世紀」と呼ばれる。チンギス・ハーンが、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国を築くと、続いて各ハーンが度重なる征服戦争をおこなった。彼らは中国を支配したばかりでなく、朝鮮半島、束南アジアまで勢力を仲ばし、さらに中東イスラム世界、ロシア、東欧にいたる大帝国をつくりあげた。  マルコ・ボーロは、『東方見聞録』の中で、この帝国の多様な性格について、次のように述べている。 フビライ・ハーンは11月にカンバルック(大都)に帰還し、そのまま2~3月の候までそこに逗留している間に、われわれの復活祭の季節がめぐって来た。……彼は盛大な儀式を催して自ら何回も福音書に焼香した後、敬虔な態度で吻(くちさき)をこれに当て、かつ居並ぶすべての重臣・貴族にも命じて彼にならわしめた。この儀式はクリスマス・復活祭といったようなキリスト教徒の主要祭典に際してはいつも挙行される例であった。しかしハーンはイスラム教徒・偶像教徒(仏教徒)・ユダヤ教徒の主要聖節にも、やはり同様に振る舞うのだった。  このモンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について、宗教・民族・文化などに注目しながら論ぜよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、600字以内で記せ。また使用した語句には下線を付せ。


ガザン・ハーン、 色目人、 バトゥ、 大理国、 駅伝制、 モンテ・コルヴィノ、 細密画、
 マジャパイト王国、 授時暦




「色目人」は「文化」で使えそう。問題文中の「南シナ海」に注目して、「マジャパイト王国」に触れるか。しかし、マジャパイトが「経済的・および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて」という条件に合うかどうか。陳朝にはラマ教が伝わったらしい。科挙やチュノムなど中国文化の影響は強いらしいが、これは「13~14世紀」にはじまったことではないだろう。94年のリード文にある「元では様々な宗教の信仰が許されていた」ことを強調する方が,
まだ条件にはあっている気がする。




「博多」の使い方について(以下2015年02月28日追記)

 阪大の桃木先生がFBで実に興味深い指摘をされている。新課程用(現在高1・2年生が使用)の山川『詳説世界史』に掲載されている、「13世紀のおもな商業ルートと物品」(170ー171㌻)と題された地図について、

「日本から中国に渡るルートは鎌倉から本州・九州のどこも寄港せずに明州(寧波)に行くように書いてある。当時の日本随一の対外貿易港で日本初のチャイナタウンが成立していた博多がない図では、福岡県の高校生に使わせるわけにはいかない。」

とのご指摘。やはり博多は、当時わが国の対中国貿易の拠点として使用すべき。

第一学習社の資料集『グローバルワイド 最新世界史図表』の「ユーラシア・アフリカをおおうネットワーク」というページはこの問題の参考になる....と思ったら、やはり博多は書かれていない(この資料集の「モンゴル時代の交易ネットワーク」という地図では、そもそも日本は蚊帳の外になっている)。
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