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中村高康著『暴走する能力主義』 (ちくま新書) [授業研究・分析]

 「多面的・多角的に考察する力」「課題の解決に向けて構想する力」「考察したり構想したことを効果的に説明する力」「議論する力」。これらの能力は、今回改定された学習指導要領において地理歴史科で身に付けるべきとされている力の一例である。これらの能力は、果たして本当に新しいのだろうか。個人的な感覚では、まったく新しくない。現行の世界史Aの学習指導要領においても、「多面的・多角的に考察」「追究し考察した過程や結果を適切に表現」「課題意識を高め,意欲的に追究」「国際社会に主体的に生きる国家・社会の一員としての責任」といった表現が出てくる。このような教科・科目の内容に関する知識ではない能力の重要性は、今になって主張されてきたわけではない。私が小学生の頃のジャポニカ学習帳のCMソングは「天才秀才ガリ勉くん、点取り虫にはなりたくない」という歌詞だったが、これを思い出しても「知識偏重はよくない」という考えが40年以上前からあったことが分かる。推薦入試やAO入試に集団面接・集団討論が取り入れられていることも「ペーパーテストでは測定できない能力」を重視したためだったように思われる。
 「議論する力」も新しい能力とは思えない。加藤公明先生は討論にもとづく日本史授業を実践して来られた[https://www.jstage.jst.go.jp/article/socialstudies/1996/74/1996_6/_pdf/-char/ja]。ベネッセのサイトで紹介されているモンゴル帝国の授業[https://www.benesse.jp/kosodate/201608/20160816-2.html]は、NHKのEテレ「わくわく授業」で2006年に放送されたものであり(記録は、岩波ブックレット『世界史なんていらない?』と、明治図書『中学・高校の優れた社会科授業の条件』に掲載されている)、新しい授業ではない。グループワークについて故鳥越泰彦先生とお話ししたのも、2007年の日本西洋史学界のことであり、(平成30年に発表された指導要領から数えて)2つ前の学習指導要領の時期に当たる。このことは岡崎勝氏も、アクティブラーニングや主体的・対話的で深い学びという言葉は「以前から教育界で唱えていた「自ら考え、自ら学ぶ」という呪文を言い換えただけ」と指摘している(『現代思想』2017年4月号・特集「教育は誰のものか」84㌻)。

 なぜこうした「今さら」の話しになるのだろうか。以下、本書からの引用である。
 「私たちが「新しい能力」であるかのように議論しているものは、実はどんなコンテクストでも大なり小なり求められる陳腐な、ある意味最初からわかりきった能力にすぎないものなのである。そのように考えてくると、職業に求められる能力の質が大きく変化した結果としてこれらの能力が注目されるようになったと考えるよりは、全体として能力観が転換しているとの根拠のない前提のうえで、「ではどんな新しい能力が必要か」を無理やりひねり出そうとした結果、最大公約数的な陳腐な能力を、あたかも新しいものであるかのように、あるいはあたかも新しい時代に対応する能力であるかのように看板だけかけ替えて、その場を丸くおさめるといったことを繰り返してきたものなのだ、と考えたほうが、私個人は非常にすっきりする。」( p.46)

 昔から重視されてきた能力が、今になって「"新しい"能力」と強調されるようになったのは「いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければいけない」という議論それ自体である。」(24㌻)からだ。このため、「新しい能力」を後づけで探さなくてはいけなくなったということだろう。

 たとえば、「おとなしい、議論もできないような性格では、高校を出てから社会や仕事に十分適応できない」という言説があるとしよう。本書の第2章「能力を測る」を読んで考えたことは、議論する力はどうやれば測定できるのかという疑問である。なかなか難しいことは容易に想像がつくが、測定が困難であるにもかかわらず声高に能力の必要性が叫ばれる理由は、指摘されているように「ダブルスタンダード」である。

 本書を貫くキーワードは、「メリトクラシー(能力主義)の再帰性」である。能力は社会的に構成され、常に問い直され批判される性質を持っている。ということは、「新しい能力」は常に求められ、そして求めること自体が自己目的化していくことになるが、「まえがき」で筆者は、何が何でも変えなければならないという強固な「意志」の存在に触れている。その意志は一体どこから生まれてきたのだろうか。
 「時間内に仕事を終えられない、生産性の低い人に残業代という補助金を出すのも一般論としておかしい」「日本の正社員は世界一守られている労働者になった。だから非正規が増えた」「正社員をなくせばいい」といった発言が、教育改革推進協議会という団体の中心メンバーから出てきている。私が「グループワークから逃げる人は社会でもやっていけない」という言説に危惧を感じるのは、この言説が生産性で人間の価値を決めてしまおうという風潮に通じるからだ。「グループワークから逃げる人は社会でもやっていけない」と、誰がどういう基準で調査した結果かはわからないが、私が「教育改革」という言葉に不安を覚えるのは、この点にあるのかもしれない。この不安を解消してもらうため、議論する力の育成やICT環境の充実の前に家庭程の経済状況や居住地域の差異にもとづく学業格差(例えば英語民間試験の受験機会の不平等)を解消してもらいたい。夏休みにスイスの牧場で生活体験をする高校生と、明日学校に持っていく弁当を心配しなければならない高校生が、同じ土俵で「議論する能力」や「高校における活動実績」を比較されてしまうことに私はどうしても違和感を拭えない。

 ある調査によれば、「高校生の半数の資質・能力は大学生になってもあまり変化しない 」そうである。とすれば、確かに「高校時代の授業でグループワークや議論が出来なかった高校生は、社会でやっていけない」という言説は、ある程度の説得力がありそうだ。しかし本書の第2章で述べられているように「グループワークや議論する力」の測定は困難である。にもかかわらず、なぜそれが「将来必要な力」で「出来ない人は将来社会でやっていけない」と言い切れるのだろうか。それに調査結果はあくまで「高校生の半数」であり、また文部科学省による平成29年度学校基本調査(確定値)によれば、「大学(学部)進学率(過年度卒含む)は52.6%(前年度より0.6ポイント上昇)で過去最高」となっている(現役は49.6%)。高校を卒業した生徒の半分は大学には行かないという実態を踏まえれば、大学進学者だけを対象にした調査がさほど重要であるとは思えない。

 小針誠著『アクティブラーニング~学校教育の理想と現実』(講談社現代新書)に中でも、大学におけるアクティブラーニングの導入には経済界からの強い要請があったこと(29㌻~)、これまでもアクティブラーニング型授業は実施されてきたこと(第2章)が述べられている。教育学と社会学、視点は異なるが実に興味深い。


暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

  • 作者: 中村 高康
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/06/06
  • メディア: 新書



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