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下地ローレンス吉孝『「混血」と「日本人」 ―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史―』(青土社) [歴史関係の本(小説以外)]

 外国ルーツのスポーツ選手の活躍や出入国管理法の改定など、最近では日本人と外国人の違いに言及したトピックに事欠かない。一方で日本での国際結婚は30組に1組の割合にのぼり、国内の新生児の50人に1人はいわゆる「ハーフ」であるという。この場合の「ハーフ」は、「どちらか一方の親が外国籍」を意味するが、かつては「混血」とよばれたり、最近では「ダブル」「ミックス」という呼称もある。こうした呼称がどのように意味づけされ、また変化していったのかを社会学的に考察した本である。

 全450㌻となかなかの大著であるが、それぞれの章には小括があり、さらに大きな部にもまとめがあるので理解しやすい。もともと学位論文だということで、序章は理論や研究の枠組みを示している。やや読みづらい部分もあるので、読み飛ばしても差し支えないが、時期区分と位相、人種プロジェクトの概念は理解しておいた方がよいと思われる(序章2-1~2-3)。時期区分と位相は図0-3(36㌻)で分かりやすく示してあるが、初版は表中に気になる誤植がある。

 第Ⅰ部「混血の戦後史」は、戦後を四つの時期に区分し、それぞれの時代を「1.混血児」「2.ハーフ」「3.ダブル」「4.多様なハーフ」という言葉で象徴させる。ここで興味深かったのは、戦後まもなく文部省が出した「混血児対策」と学校現場での対応の記録をまとめた第一章。また、「多文化共生」を目指す施策中には、自分たち「日本人」とは異なる「外国人」という二項対立的な構造を前提にしているとの第三章の5での指摘も興味深い。「外国人」を「日本人以上に日本的」と褒め称えるのは、この二項対立にもとづいているが、この前提に基づけば「ハーフ」とよばれる人々は「日本人」でも「外国人」でもなくなってしまう。ナチスはニュルンベルク法にみられるようにユダヤ人を「血の論理」で区分していたが、歴史的に形成されてきた「日本人」と「外国人」という二項対立の中では、その内容が多様な「ハーフ」の存在は見えにくくなるだろう。
 第Ⅱ部「戦後史から生活史へ」では、「ハーフ」の人々のインタビューに基づいて「日本人」でも「外国人」でもない彼らが日本でどのように生きてきたかが紹介される。『地域から考える世界史』でも書いたことだが、私自身も様々なエピソードや体験を耳にしてきた。こうした差別や偏見にさらされた人たちに対して、「よく耐えたね、頑張ったね」だけで終わらせてはいけないような気がする。

 学校の教室にハーフの子どもがいることは珍しくない。普段私は「外国ルーツの人(子ども)」という呼び方をするが、それは「ハーフ」という言葉を使うことになんとなく抵抗があるからだ。おそらくその言葉に蔑視的なニュアンスを感じるからだと思うが、根拠があるわけではなかった。「ハーフという言葉に、自分はなぜ抵抗があるのか」を考える機会となった。


著者による評論
https://www.nippon.com/ja/currents/d00443/
https://www.nippon.com/ja/currents/d00444/
https://www.refugee.or.jp/fukuzatsu/lawrenceyoshitakashimoji01
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57709



「混血」と「日本人」 ―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史―

「混血」と「日本人」 ―ハーフ・ダブル・ミックスの社会史―

  • 作者: 下地ローレンス吉孝
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2018/08/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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