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休業中の学習支援をどうするか [たんなる日記]

大型連休を前に熊本県では「県立高等学校・中学校における臨時休業期間の長期化を見据えた学習支援に関する基本方針」が示され、各学校はこれに基づいて学習支援を計画し、実施していくことになった。この方針が示しているのは、大型連休が明けてからの学習支援計画の作成である。これまで(3月・4月)の「復習や橋渡しのための課題の提示」という段階から、5月以降は「学習内容と計画を明示し、教師は生徒の状況や成果にもとづいて評価する」という段階に移行することを示している。評価を行うということは、「休業中に家庭で学習した内容は学校が再開されても授業で扱う余裕はない」可能性を見据えてのことだろう。やるべきことは大きく2つ。教務部が各学年ごとに時間割を作成することと、各教科で評価規準を明示したシラバスとそれに基づく課題をつくることである。時間割の基本は月単位だろうが、熊本県立第二高校は週単位で作成しているようだ。ただ生徒の中には、時間割を決められるのは迷惑だと感じる生徒もいるかもしれない。そういう生徒には、自分の得意不得意や関心に応じて対応できるようにしてもいいと思う。
 シラバス作成にあたっては具体的な内容を指示しなければならないが、オンライン授業をどうするか。大学のセミのような少人数ならともかく、40人でのリアルタイムでの双方向授業はムリだ。となれば動画配信ということになる。熊本北高校では現在の数学Ⅲと理系の生物が動画配信による授業を行っているが、生徒に感想を尋ねたところ高い評価である。自校の生徒向けなので、レベルなどがあっていることのほかyoutubeというイマドキのツールを使っているという物珍しさもあるだろう。しかし全教科で行うのは不可能である。私と同僚で授業動画を作ろうとしても、おそらくNGの連続で1本作るのに1週間かかるかもしれない。そこで、業者が作成した動画授業の配信を利用したいと考えている。団体契約にすればかなり割安になるので、たとえば兵庫県では全県立学校に公費で導入されるという。動画視聴環境の調査を行ったところ、難しい生徒が数名いたのでそうした生徒に限り学校内での視聴を許可するなどの対応をとる必要がある。熊本大学教育学部の苫野一徳先生はツイッターで「行政は教育資源の「均等配分」(みんな同じ)を重視してしまうが、より重要なのは「適正配分」(困っているところにより厚く)である。」「たとえば、PCやタブレットやネット環境がすべての子どもには揃わないから、オンライン授業はやらない、という「みんな同じでなければならない」の発想はかえって不平等を生む。(持っている家庭はどんどん進む。)むしろ、足りないところに資源を傾斜配分することで、格差縮小を目指す必要がある。」と述べているが、まったくその通りだと思う。評価問題はMicrosoft Formsで作成の練習をしてみたが(熊本県の教職員にはOffice365 for Businessのアカウントが発行されている)、返信データはエクセルで出力できるので大変便利だ。専門の講師の授業動画を視聴することは、大変勉強になって有難い。

 ところが9月から新学期という議論が現実味を帯び始めた。もし実現すれば、各学校での対応は再検討する必要があるが、休業だからといって在校生を放置するわけにはいかない。9月までの休業期間、高校はいったい何をすればいいのだろう。9月新学期の論拠として、学力格差の広がりをあげているが、家庭環境や在籍する学校によって9月からのスタートラインはまったく違うことになりはしないか。例えば大学受験に関しては、都会の中高一貫校の場合だと受験勉強だけの期間が増えることになってしまう。新学期は9月スタートとなれば、苫野先生が指摘したような格差は拡大する一方のような気がする。

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モイゼス・ベラスケス=マノフ『寄生虫なき病』(文藝春秋) [たんなる日記]

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 コロナウイルスによる新型肺炎拡大の影響で、体温計が品薄になっているという。入院すると、毎朝脈拍や血圧、そして体温も測定する。高い体温は何らかの異常が起こっているサインだが、それが明らかになったのは8人のイギリス人と1人のスウェーデン人による体を張った実験がきっかけである。『自分の体で実験したい~命がけの科学者列伝』(紀伊國屋書店)によると、18世紀後半にイギリスの医師ジョージ・フォーダイスとその仲間たちは「人間はどれだけの熱に耐えうるか」という実験を数度にわたって行い、そのうちのひとりチャールズ・ブラグデンは127℃の高温に耐えたという。この実験中彼らの体温は37℃越えることはなく、体温は常に一定であることが発見された。『自分の体で実験したい』には、「ペルーいぼ病」の治療法を発見するために患者の血液を自ら注射した医学生、黄熱病は蚊によって媒介されることを証明するために患者の血を吸わせた蚊に自ら刺される実験を行った医師など感染症絡みの話もいくつか紹介されている。

 こうした「自分の体を使った実験」でいちばん強烈だったのは、アメリカ鉤虫という寄生虫に自ら感染して検証したジャーナリストによる『寄生虫なき病』(文藝春秋)である。科学ジャーナリストである著者のモイゼス・ベラスケス=マノフは、彼自身が子どものころから苦しんできたアレルギー疾患と自己免疫疾患は、公衆衛生の向上がもたらしたものではないかという仮説に達する。つまり、寄生虫やウイルス、細菌などを排除して清潔な環境を追求していた結果、花粉症などそれまでになかった新たな病に悩まされることになったのではないか?と考えた。それを証明するため、彼はカバー写真に写っている(アメリカではすでに根絶されている)不気味なアメリカ鉤虫を(大金を払って)自分の体内に取り込んだのである。感染した結果、アトピー性皮膚炎や花粉症、免疫疾患による脱毛に改善がみられたという。結論として、人類は長い年月をかけて免疫攻撃を寛容にすることを通じて寄生虫やウイルスと共存共栄を図ってきたが、「きれいな」環境づくりを追求してきた結果、寛容さが失われた免疫が暴走し、花粉症、アレルギーや自己免疫疾患が増加してきた。きれいな環境づくりの転機となったのが、産業革命による生活環境の悪化であったという点もまた興味深い。

 この本の原題は「AN EPIDEMIC OF ABSENCE」、つまり「不在による病」である。コロナウイルスなど感染症の研究は「何があって病気なのか」を特定する「存在」のアプローチだが、この本は「解説」にもあるように「何が欠けて病気なのか」を特定する「不在」のアプローチである。ややもするとトンデモ本であるが、膨大な症例と報告、そしてなによりも自分の体で実験してみたという結果をみると、もしかするとありえるかも...と思ってしまう。

 「自分が不快とみなす存在の排除」や「不寛容」が悪影響をもたらすという話は、昨今起こっている医療従事者の方への差別や中傷、感染者滞在を明らかにした施設への誹謗にもつながっているような気がする。


ウイルスと寄生虫の違い(群馬大学大学院医学系研究科)
http://yakutai.dept.med.gunma-u.ac.jp/project/H27%20MachinakaCampus.pdf



寄生虫なき病

寄生虫なき病

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2014/03/17
  • メディア: 単行本



自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝

自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 単行本



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『現代思想』2020年4月号 特集「迷走する教育」 [その他]

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 新年度スタート時期に教育関係の特集を組むことが多い『現代思想』だが、4月号の特集「迷走する教育」はここ数年の特集の中でも特に読み応えある内容だった(特集「教育は変わるのか」の一年後の特集が、「迷走する教育」というのがなんとも....)。特に今号は共通テストをはじめとする教育改革が大きく取り上げられており、高校の教師である自分にとっては実にリアルな話である。私は社会系教科の教員なので、他教科の事情はまったく不明なのだが、今号では国語・英語・数学の各教科が抱える問題点が解説されていて、大変興味深かった。

 高大連携とか高大接続とかの改革は、大学入試によって高校教育を変えようとしているが、よく考えたら「入試で教育を変える」というのは本末転倒だし、そもそも大学に進学しない生徒が置き去りにされている。学研からもらった冊子で京都工芸繊維大の羽藤由美先生(本号にも寄稿されている)が、大学入試はその時点における受験者の能力を測定するために行うのであり、能力を育成するため行うのではないと述べていたが、その通りだと思う。新しい学習指導要領は基本的に内容よりも「社会で役立つ人材」の育成が重視されているように思われるが、科目によっては高卒就職者を企業の即戦力にしようとする意図も感じられる。「安い賃金で使うことができる有能な労働者」を育成するイメージである。「役に立つ」の基準が金額で明示されるようになったら、格差はますます増大するのではないだろうか。本号で荒井克弘先生が書いているように(「大学入学共通テストの現在」)、高校で約半分の生徒が授業が理解できていないなか、年齢人口の約6割が大学や短大に進学しているという現状を考えれば、授業理解度の問題をはじめとするミスマッチを改善しない限り高大接続は画餅に帰すように思われる。

 今回の教育改革には、「カネにまつわる話」が多すぎる。教育改革推進協議会とか日本アクティブラーニング協会といった団体に「正規社員をなくすべき」と主張する人材派遣会社の会長が関わったり、産業能率大学という教育学部を持たない経営系学部が主体の大学がアクティブラーニングを声高に進めている点にしっくりこない。最近だと共通テストの採点や英語民間試験に関わっていた民間企業がまるで自分たちが被害者であるかのような物言いをしていたり、さらには「未来の教室」とやらを進める経済産業省の官僚がなぜかアベノマスクに関わっていて、自身のSNSで 「ひとしきり文句を垂れていただいた後は」などと国民を小馬鹿にした表現で自身の手柄を誇っているなど、「終わってる感」ばかり。確かに教育改革はビジネスチャンスではあるのだろうが、だからと言ってそれが教育自体より大きく扱われている現状には、「子や孫の時代に日本は一体どうなっているのか」という不安を禁じ得ない。本号に掲載されている赤田圭亮(給特法)・岡崎勝(いちばん面白かった)・内田良(一斉休校に関するタイムリーな話題)・三浦綾希子(私が個人的に関心あるテーマ)の諸先生方が書かれた文を読むと、教育改革に必要なのは経済学ではなくて、教育社会学じゃないの?と思ってしまう。






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