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飯島渉『感染症と私たちの歴史・これから』(清水書院) [歴史関係の本(小説以外)]

 清水書院発行のシリーズ「歴史総合パートナーズ」の一冊『感染症と私たちの歴史・これから』は、欧米の視点から書かれているウィリアム・マクニールの『疫病と世界史』をヒントに、日本の視点(時代区分やトピック)から書かれた本である。100㌻に満たない本なので概説書として手軽に読むことができる。新型コロナウイルスが世界中で蔓延している現在、読んでみて損はない。

 この本にでは様々な感染症が取り上げられているが、なかでも天然痘は「コロンブス交換」の結果、大航海時代に新大陸のインディオ人口を激減させた病気として世界史の授業でも取り上げられるメジャーな感染症だろう。マンガ『MASTERキートン』では、「ハーメルンの笛吹男」伝説とナチスのホロコーストと絡めて、ロマ(ジプシー)が天然痘の抗体を各地に広めたという仮説が紹介されていた。具体的な病状としては、これまで発疹が出る程度の知識しかなかったが、『感染症と私たちの歴史・これから』に出てくる天然痘を示す言葉「瘡」という文字を漢和辞典(学研『漢字源』)で調べてみると、「かさ・できもの・はれもの」「きず、切りきず、きずあと」といった意味が出てくる。また「痘」には「皮膚に豆粒大のうみをもったできものができて、あとを残す」とある。「痘瘡」の症状がなんとなく分かるが、「あばたもえくぼ」の「あばた」は「痘痕」と書くので、日本でもなじみ深い感染症だったのだろう。

 天然痘はWHOにより撲滅宣言が出されたが、現在でも多くの人が命を落としている感染症がマラリア。私もこの本で初めて知ったが、エイズ・結核と並んでマラリアは現代でも「3大感染症」の一つであり、2015年にノーベル賞の生理学賞・医学賞を受賞した屠ユウユウ氏(中国:ユウは口偏に幼「呦呦」)の受賞理由は、「マラリアに対する新たな治療法に関する発見」だった。中国で熱帯に近い南部は昔からマラリアの多発地域だった。

 中国の広東省一帯は,古くは「瘴癘の地」として,人々から恐れられる土地であった。瘴癘とは,熱帯・亜熱帯に生息する蚊が媒介する,マラリアの一種と考えられる。その一方で,この地の沿海部にある広州は,古くは)南越の都があった場所で,南海貿易の拠点として発展し,唐代には中国で最も重要な対外貿易港の一つとなった。明末以降,沼沢や山林の開発が進み,人間の生活圏から蚊の生息地が減少すると,「瘴癘の地」というイメージは薄らいだ。清代の広州は欧米諸国との貿易港として発展し,医療を含め,西洋近代文化が中国に浸透する窓口となった。
2008年度 センター試験世界史B 追試験第3問B


 屠ユウユウ氏(彼女の名前は『詩経』の一節に由来するという)の経歴は大変興味深い。彼女が生まれたのは、満州事変勃発の前年である1930年。抗日戦争後、文革とベトナム戦争、改革開放などを経験した彼女の伝記は、そのまま中華人民共和国の歴史のようだ。

 屠ユウユウ氏を含め、マラリアに関する研究に対して与えられたノーベル生理学・医学賞はこれまで4件あり(1902年、1907年、1927年、2015年)、人類がいかにマラリアに苦しめられてきたかがよくわかるが、このうち1927年に受賞したユリウス・ワーグナー=ヤウレック(オーストリア)の研究は「毒をもって毒を制する」ユニークな治療法。梅毒患者を人工的にマラリアに感染させ、マラリアによる高熱で梅毒の病原菌トレポネーマを死滅させたのち、次にキニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるというものである。当時としては画期的な治療法だったが危険性が高く、抗生物質が普及した現在では行なわれていないという。

 マラリアで死んだ有名人は多く、Wikipediaの「マラリアで死亡した人物」にはアレクサンドロス大王やピューリタン革命のクロムウェルをはじめ、一休さん、平清盛、ツタンカーメン、アフリカ探検のリヴィングストンなどが紹介されている。そのほかローマ教皇アレクサンドル6世(チェーザレとツクレツィアのボルジア兄妹の父)や在位最短(12日間)のローマ教皇ウルバヌス7世も死因はマラリアだったとされる。さらにアレクサンドル6世の次に教皇となったユリウス2世と彼の保護を受けたミケランジェロ、そしてメディチ家出身の教皇レオ10世と彼の保護を受けたラファエロの死因についてもマラリア感染症だったという説があり、新型コロナウイルスの罹患者も多いイタリア、感染症ウイルスに適した要因でもあるのだろうか?

 マラリアの特効薬として知られるキニーネは、南米アンデス地方原産のキナの木から原料が採取される。このキニーネはイエズス会の宣教師によりヨーロッパに持ち込まれたことから、プロテスタントであるクロムウェルはキニーネの服用を拒否したことが致命的だったらしい(D.R.ヘッドリク『帝国の手先』日本経済評論社78㌻)。キニーネは苦く、カクテルの一種ジントニックにも味付けにも使用される。映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』(馬志翔監督、2014年、台湾)の冒頭、フィリピンへ向かうため台湾に来た陸軍大尉錠者博美は、基隆で多くの将兵がマラリアに罹患している状況を目にするが、彼にキニーネを渡す軍医がわざわざ「苦みのない」と付け足しているのはそのためである。

 アフリカ大陸はマラリアが蔓延していたためヨーロッパ人が内陸部まで進出するのは困難であったが(アフリカには鎌状赤血球症というマラリアに耐性を持つ貧血症が多い)、キニーネの普及はアフリカの植民地化を加速した。D.R.ヘッドリクは、「(アフリカ争奪戦は)汽船、キニーネ予防薬、そしてこれからみるように、速やかに射撃のできるライフル銃との結合の結果」と述べているが(『帝国の手先』87㌻)、まさに『銃・病原菌・鉄』(ジャレ・ド・ダイヤモンド)である。よく知られたセシル=ローズの風刺画が示す運輸・通信手段(東京大学の2003年の入試)や軍事技術と同様、医療技術もアジアやアフリカの植民地化を促進したということになる。『感染症と私たちの歴史・これから』では、「身体の植民地化」という言葉で、「医療や衛生が植民地主義の最も重要なツールだった」ことが指摘されている。逆に征服される側からみれば、感染症によって護られてきたとも言える。橋本雅一『世界史の中のマラリア』(藤原書店)の中で著者は「マラリアはわれわれの強い味方だ。収奪者は震え上がり、侵略者は逃げ出す。」というアフリカの学生の言葉を紹介し、「近代と前近代、文明と未開、都市と辺境、富と貧困、強者と弱者....マラリアは、多くは前者によって優劣を決定され、対立を明確にされてきたこれらの項目の後者の側にぴったりと寄り添って生きのびてきた病気だったかもしれない」とも指摘している。

 マラリアが、ヨーロッパ人が訪れる以前の新大陸にも土着していたかどうかについて、『世界史の中のマラリア』は、新大陸にはなかったという立場をとっている。その根拠として、スペイン人によるインカ帝国やアステカ王国の征服がマラリアによって阻害されなかったこと(当時のヨーロッパ人はキニーネの存在を知らなかった)、そしてインカやアステカの滅亡からヨーロッパへのキニーネ伝来(1630~40年代)まで一世紀を要していることなどをあげている。時期的には、人口が激減したインディオの代替労働力として導入されたアフリカ系の奴隷によって新大陸に持ち込まれたと考えるのが妥当で、その意味では「キナ樹皮のマラリア特効薬としての用法は、征服者にとって以上に、被征服者にとってこそ"発見"だったのではないだろうか」(『世界史の中のマラリア』104㌻)という指摘には考えさせられる。

 植民地の拡大につれ、キニーネの需要は増大する。ルシール・H.ブロックウェイ『グリーンウェポン―植物資源による世界制覇』によると、イギリスの王立植物園キューガーデンがイギリスの帝国主義に果たした役割は大きい。キューガーデンには世界中から有用な植物が集められ、品種改良や生育に適した環境の調査が行われた。そしてイギリスの植民地で生育に適した地域に移植され、プランテーションでの大量生産が行われたのである。キニーネもそのひとつで、ペルーからインドやセイロン島に移植された(こうした有用植物は、他に茶やゴムがあげられる)。帝国書院の教科書『新詳世界史』の「19世紀前半 世界の工場イギリスと世界システム」のページではキューガーデンの写真が使われ、「植民地の植物園とのネットワークを生かして世界中の植物が集められ、品質改良がほどこされた。その結果、「中核」にとって有効な植物は「周辺」の環境に深刻な影響を与えることもあった」というキャプションがついていた(現在はインドで栽培された茶を象が運んでいる写真に変更されている)。キニーネを化学的に合成しようとする科学者も多く、イギリス・ヴィクトリア時代の化学者ウィリアム・ヘンリ・パーキンもそのひとりだった。彼は当初キニーネの人工合成を目指して研究していたが、実験の失敗によって生成した沈殿物から紫色の合成染料(アリニン染料)が生産されるようになり、それまで「王侯貴族の色」であった紫が一般にひろがる契機となった(『世界史の中のマラリア』148㌻)。1862年のロンドン万国博覧会で、ヴィクトリア女王が着用していたのは、パーキンの開発した人工染料モーブ(Mauve)で染色された絹のガウンだったという。世界史の教科書にはよく藍がアジアの産物としてでてくるが、藍に代表される天然染料は、キニーネの合成がうまくいかなかったことがきっかけで合成染料に取って代わられることになったのである(社団法人日本化学工業協会「化学はじめて物語」 https://www.nikkakyo.org/upload/plcenter/349_371.pdf 6㌻)。

 『感染症と私たちの歴史・これから』では、日本におけるマラリアの流行とその撲滅についても触れられているが、戦争と関係深いことは興味深い。現在の日本では土着のマラリアは撲滅されているが、マラリア原虫を媒介するハマダラカは現在でも日本に生息している。地球温暖化などの気候変動により再流行する可能性もある(環境省による啓発パンフレット「地球温暖化と感染症」 http://www.env.go.jp/earth/ondanka/pamph_infection/full.pdf 14㌻)。

 2020年3月19日のAFP通信は、「新型コロナウイルスの影響によりイタリア全土で封鎖措置が敷かれる中、水の都として世界的に知られる同国のベネチア(Venice)では、観光客の出すごみがなくなり水上交通量もほぼ皆無となって、きれいに澄んだ運河の水が住民の目を楽しませている。」と伝えている[https://www.afpbb.com/articles/-/3274147]。またCNNなどは「新型コロナウイルスによる経済活動を制限したことにより、中国の大気汚染が大きく解消された」とも伝えている。もし地球温暖化がマラリアの大規模な流行を招来するとすれば、感染症の流行は地球自身の自己防御作用なのではないか、という気がしてくる。果たして人類は、地球上から感染症を撲滅することができるのだろうか?


【マラリアに関するエピソード】
感染制御のための情報誌『Ignazzo』「マラリアのはなし」 https://bit.ly/2U2xy3V
イタリア研究会「マラリアはローマの友達」 https://bit.ly/2UjKP76
厚生労働省検疫所FORTH https://www.forth.go.jp/useful/malaria.html


歴史総合パートナーズ 4 感染症と私たちの歴史・これから

歴史総合パートナーズ 4 感染症と私たちの歴史・これから

  • 作者: 飯島 渉
  • 出版社/メーカー: 清水書院
  • 発売日: 2018/08/23
  • メディア: 単行本



世界史の中のマラリア―微生物学者の視点から

世界史の中のマラリア―微生物学者の視点から

  • 作者: 橋本 雅一
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2020/03/21
  • メディア: 単行本



グリーンウェポン―植物資源による世界制覇

グリーンウェポン―植物資源による世界制覇

  • 出版社/メーカー: 社会思想社
  • 発売日: 2020/03/21
  • メディア: 単行本



帝国の手先―ヨーロッパ膨張と技術

帝国の手先―ヨーロッパ膨張と技術

  • 出版社/メーカー: 日本経済評論社
  • 発売日: 1989/08/01
  • メディア: 単行本



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松岡亮二『教育格差』(ちくま新書) [その他]

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 ずいぶん昔のことだが、教え子のひとりが『東大文1―国家を託される若者たち東大文Ⅰ』(データハウス)という本で取り上げられた。彼がピックアップされた理由は、公立高校出身者だったからである。熊本県内では優秀な生徒が最も多く通っているとされる熊本高校から東京大学に合格したという快挙も、全国的な視点からすれば「進度が遅いというハンデを乗り越えて」栄冠を勝ち取ったと見なされるのである。十数年前にある有名私立校の定期考査問題(世界史)を見せてもらったことがある。熊本高校2年生の定期考査問題とほぼ同レベルの問題だったが、その問題はその学校の中学3年生で実施された定期考査の問題だった。

 都市圏と熊本との地域格差はもちろんのこと、熊本県内でも「熊本市内とそれ以外」という居住地域にもとづく「スタート時からの格差」が存在する。2020年3月3日(火)の朝日新聞(熊本県内版)に掲載された「公立校 進む統廃合」と題された記事によれば、2006年に85校あった熊本県内の高校は17年までに76校に減少したが、熊本市内だけに限れば27校という数は1980年代後半から現在まで変わっていない(この間1988年に東稜高校が新設され、2011年に熊本フェイス学院が開新高校と合併して消滅した)。つまり中学卒業後は熊本市内の高校に進学を目指す生徒が多いわけで、実際生徒数をみても熊本県の高校生は2005年の5万8千人から18年には4万8千人に減少したが、熊本市内の高校に通う生徒数は約2万6千~2万7千人とほぼ横ばいである。地方と都市圏のみならず、地方の中でもさらに格差は拡大している。

 では、こうした格差が生まれる要因は何だろうか。3月11日付の熊本日々新聞の読者欄「若者コーナー」で、高校生が「三つの格差を縮めるために」と題して、教育格差に言及していたが、教育格差の原因として「親の収入」をあげていた。なるほど、高い所得の家に生まれた子どもは、塾に通ったり家庭教師をつけてもらったりと、親から様々なサポートを受けられるだろう。実際、「東大生の親の年収は、平均の約2倍」という調査結果もある[https://dot.asahi.com/aera/2012111600016.html]。では親の収入の格差が教育格差の原因だという言説は本当に正しく、他の要因はないのだろうか。また教育格差を縮める処方箋はないのだろうか。こうした疑問から手に取ったのが本書である。

 教育格差の指標として、最終学歴の差を用いている。最終学歴の差は、生涯賃金をはじめ職業や健康など様々な格差の要因につながるからである。本書の前半はデータの冷静な分析となっている。すなわち、最終学歴は生まれ(親の最終学歴や出身地域)という本人には如何ともしがたい要因に左右されるという仮説が正しいことを、統計データの分析を通じて明らかにしている。序章から第5章までのトピックは、以下の通り。

  ・父親が大卒だと、子どもも大卒になる割合が高い。
  ・生活する都道府県が三大都市圏、市町村が大都市だと、大卒となる割合が高い。
  ・教育格差は、小学校入学前から始まる。
  ・公立の小学校であっても、学校間で学力の格差が存在する。
  ・親が大卒だと、中学校教育への親和性が高い。
  ・中学校では公立と私立のみならず、公立間・私立間でも学力格差が存在する。
  ・高校間の学力格差は、親学歴による学力格差に起因する。
  
 以上のトピックはさして目新しいことではなく、私を含め多くの人が漠然と感じていることだろう。しかし重要なことは、その漠然と感じていることをデータを使って「今そこにある格差」として論証してみせたことにある。つまり日本の教育格差は、本人の努力では克服することが難しい「生まれ」に起因しており、しかもその差は幼稚園から高校までなかなか縮小しない。したがって、「不利な状況でも努力で克服できる」「学校の成績が悪いのは、勉強をサボっている本人の責任」という自己責任論はあまり説得力を持たないし、その意味で日本は緩やかな身分社会ともいえる。こうした状況を克服することが、結果的には社会全体の平均値を上げることにつながっていく、と著者は主張しているが同感である。

 教育格差を克服するため、筆者は二つのことを提案している。まずは分析可能なデータを収集して教育政策や改革を検証すること、そしてもう一点は、大学の教員養成課程で「教育格差」を必修とし、どちらかと言えば「勝ち組」であるため格差に気づきにくい教師に現状を把握させることの二点である。あまりに大きな問題に対して、やや対策が小粒な印象も受けるが、では他に何かあるかというと、今の私は対案を持ち合わせていない。2020年3月15日付の熊本日日新聞「くまにち論壇」で教育哲学者の苫野一徳先生(熊本大学教育学部)は、「公教育の構造転換」を提唱している。これまでの「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムから、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換である。確かにこれまでのみんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムでは、小学校入学前から始まっている教育格差は縮まらないだろう。協同化によって、格差は縮まり、またプロジェクト化によって意欲も高まるように思われるが、一方で個別化は格差を増大させるようにも感じる。

 19世紀後半~20世紀初頭の西欧の家庭や家族について述べた文として最も適当なものを、次の ①~④のうちから一つ選べ。
 ① 庶民階級の子供は、学校教育の対象とはされず、読み書きは専ら家庭で教えられていた。
 ② 中産階級の家庭では、夫婦共働きが理想の家庭と考えられるようになった。
 ③ 家庭は、消費と精神的なやすらぎの場から、生産と消費の場へと変化した。
 ④ 中産階級の家庭では、結婚後の女性が家事や育児に専念する傾向が強まった。
                (1998年度 センター試験 世界史A本試験 第2問C )

 
 上の問題における選択肢①は逆で、イギリスでは1870年に自由党のグラッドストン内閣のもとで最初の教育法が制定され、庶民階級の子どもを対象とした初等教育が実現した。上流階級の家庭では家庭教師によって初等教育段階での教育を身に付け、その後イートンやハローなどの伝統的なパブリック=スクール(私立学校)で中等教育段階の学習が行われることが多かったからである。国民の統合が必要となった19世紀には、統一的な読み書き能力や共通の歴史認識が必要となってくる。こうして公教育は国家的な事業となり、国民を育成すると同時に教育格差を是正する役割をも担っていた。現在の日本では、そうした格差を縮小するという公立学校の役割は十分に機能しているとは言い難い。その意味で、Youtubeを通じて日本史・世界史の無料授業を行っているMundi先生など大学受験のための授業を無料配信する取り組みは素晴らしいと思うし、また「高校生の半分は大学に行かないから大学進学のための受験指導に血眼になる必要は無い」という意見は、首肯できるものではあるものの格差を自明のものと考える傲慢さも感じられる。もちろん教育格差は日本だけの状況ではないが(鈴木大裕著『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』岩波書店)、こうした認識を欠いた状態での教育は「優秀である一方で、低賃金でも文句を言わずに働く、金持ちに都合がいい労働者」、つまり格差があるのは仕方ないと諦観した人々を生産しているのかもしれない。そして自分はそれに荷担しているのではないか?と自問するとき、私は慄然とするのである。


著者による解説
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65952

都市と地方の格差
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353




教育格差 (ちくま新書)

教育格差 (ちくま新書)

  • 作者: 松岡 亮二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 新書



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村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波新書) [歴史関係の本(小説以外)]

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 新型コロナウイルス感染症の流行により、カミュの『ペスト』が売れているという。
https://toyokeizai.net/articles/-/335178
https://mainichi.jp/articles/20200227/k00/00m/040/366000c

カミュの作品は、ペストに立ち向かう人々を通じてこの世の不条理さを描いたフィクションだが、同じくペストを扱った村上陽一郎の『ペスト大流行』(岩波新書)もまた注目されているらしい(アマゾンのマーケットプレイスでは2020年3月9日の時点では最低5000円で出品されているが、近々再刊されるとのこと)。ということで30年ぶりくらいに再読。

 この本には「ヨーロッパ中世の崩壊」という副題がついており、ペスト大流行の実態と人々の対応を跡づけ、この病気の流行が後世にどのような影響をもたらしたかを論じたものである。隔離政策の開始(当時の隔離は、ハンセン病患者のように遺棄に近いものであった)、ペスト蔓延の原因と見なされたユダヤ人への迫害、宗教的情熱の高揚(宗教改革につながる)などは短期的な影響であるが、長期的には農民の地位の向上に伴う荘園制度の崩壊をもたらし、ヨーロッパが資本主義へと舵を切るきっかけになったとも言える。2000年度のセンター試験世界史B(追試)第4問Aのリード文は、黒死病(ペスト)の流行についてよくまとまった文章だと思う。

 1347年秋にマルセイユ等の地中海沿岸都市から上陸した黒死病(ペスト)は,その後全ヨーロッパで猛威を振るった。人々は,有効な治療法を知らず,病人との接触を避ける以外に予防手段を持たなかった。そしてひたすら神に祈るかと思えば,むち打ち苦行団に加わり,あるいは恐怖のはけ口を求めてユダヤ人大虐殺を引き起こすなど,パニック状態に陥った。この時の流行で3000万とも言われる死者を出したペストは,その後も流行を繰り返し,ヨーロッパの人口の回復を妨げた。イギリスとフランスでは,これに百年戦争も重なって,すでに進行しつつあった荘園制の危機に拍車がかけられることになった。


ペストの流行が封建社会の衰退をもたらしたという点については高校世界史の教科書にも記述がある。村川堅太郎・江上波男・山本達郎・林健太郎の諸先生が名を連ねておられた時代の『詳説世界史』(山川出版社)の記述。

【1985年版】
「たまたま1348年を中心に黒死病(ペスト)が西ヨーロッパをおそい、農村人口は激減した。領主は農村の労働力確保のため、農民の待遇改善をはかった。そのため農民の生活はますます向上し、貨幣をおさめるだけでよい独立自営農民に上昇していった。特に貨幣地代のもっとも普及していたイギリスでは、農民の地位の向上が著しかった。」

【1991年版】
1985年版と同じだが、「黒死病」が太字となり、独立自営農民に「(ヨーマン)」とカッコ書きが加わっている。

【1997年版】
「たまたま1348年を中心に黒死病(ペスト)が西ヨーロッパで流行し、農村人口が激減すると、領主は農民の確保のため、彼らの身分的束縛をゆるめるようになった。こうした農奴解放の動きとともに、農民の地位は高まって、彼らはしだいに自営農民に上昇していった。この傾向は、もっとも貨幣地代が普及したイギリスで著しく、かつての農奴はヨーマンと呼ばれる独立自営農民に上昇したのである。」

 現行の『詳説』の記述と比べると、ペストの役割が強調されているように感じる。現行版では「1348年」という年代も、なくなっている。

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 14世紀のヨーロッパで流行したペストのルーツについて、村上陽一郎『ペスト大流行』では中国や中央アジアなど複数の説を紹介しているが、いずれにせよ他地域から交易ルートに乗ってもたらされたという点では同じである。そのうちの中国から伝わったという説については、13世紀にモンゴルによってユーラシアの東西が結ばれた結果、アジアからヨーロッパにペストがもたらされたともいわれている。ウィリアム・マクニールという研究者は、その著書『疫病と世界史』(佐々木昭夫訳、新潮社)の中で「ヒマラヤ山麓に根を下ろしていたペストは、モンゴルの征服活動の結果中国に広がり(中国では1331年にペストが流行している)、その後交易ルートに乗ってクリミアに至り、1348年のヨーロッパにおける大流行をもたらした」と述べている。フビライが雲南の大理を征服するのが1254年なので、計算上ムリはない。ジャネット・アブー=ルゴド女史も、『ヨーロッパ覇権以前(上)』(岩波書店)の中で、「マクニールの推論を確証する十分なデータはないが(反証するデータもまたない)、彼の説は説得力があり、すべてとは言わないが少なくとも一部は証拠づけられている。」と賛意を示している(219ページ)。このモンゴル説は、ある予備校の東大模試に使われたこともある。リード文でボッカチオの『デカメロン』におけるペスト流行の描写を引用した上で、「古代よりペストの流行は幾度か発生しており、多くの文献にもその様子が記されている。しかし、かつてこれほどに迅速かつ広範囲にペストが広まったことはなかったし、多くの犠牲者が出たこともなかったのである。14世紀半ばのヨーロッパを襲った危機的な状況は、単に一地域での事象にとどまらず、より巨視的な視点の上で理解されるべきである。」と述べ、解答例では「....モンゴル帝国による駅伝制の整備や十字軍を契機とする西欧の遠隔地商業の発達により、ユーラシア全域に渡る交易網が形成されており、これらがペストの被害を拡大した。」としている。最近でも北村厚先生の『教養のグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房)では「ペストはモンゴル帝国のユーラシア・ネットワークにのって西に伝わった。ペスト菌を媒介するネズミやノミが遠方の都市に到達することは、従来ありえなかったが、モンゴルのつくったジャムチは、ペスト菌の遠隔移動を可能にした。」とされている。この仮説が正しいとすれば、西欧封建社会の解体にモンゴルも一役買ったということになるが、一方でモンゴル研究の権威、杉山正明先生はマクニール説に懐疑的だ。曰く「すくなくとも、モンゴル帝国の東から西へ、はるばると旅をしてきた黒死病が、クリミアをへて、ついに西欧に達したというマクニールのシニカルな説は、根拠なしなら誰でも考えつきそうな仮説の一つとして、つまりは一種のジョークとして、なおいまだ、真に受けるにはおよばない。」(『大モンゴルの時代』中央公論社、232ページ)。
 
 ところでこの『ペスト大流行』には「14世紀のペスト大流行の時期には、バッタによる激しい蝗害があった」という興味深い記述がある(57㌻~)。昨年からアフリカにおけるバッタ被害が報道されており、いよいよアジアに迫っているというが、奇妙な符合である。本書では14世紀のペスト大流行に拍車をかけたのは、蝗害や洪水・気候変動による食糧の不足による栄養状態の低下であったとも指摘されている。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56324260T00C20A3FF8000/
https://news.yahoo.co.jp/byline/mutsujishoji/20200307-00166447/

 果たして新型コロナウイルス感染症は、ペストのように大きな変動をもたらすのだろうか?



ペスト大流行―ヨーロッパ中世の崩壊 (岩波新書 黄版 225)

ペスト大流行―ヨーロッパ中世の崩壊 (岩波新書 黄版 225)

  • 作者: 村上 陽一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1983/03/22
  • メディア: 新書



疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2007/12/01
  • メディア: 文庫



疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2007/12/01
  • メディア: 文庫



教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門

教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門

  • 作者: 北村 厚
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2018/05/11
  • メディア: 単行本



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原田智仁『「歴史総合」の授業を創る』(明治図書) [授業研究・分析]

 2022年度から高校地歴科の新科目「歴史総合」が始まる。「準備しないといけないな」とは思っているが、なかなか手に付かない。手に付かない理由としてはいくつかあるが、まず時間的な余裕が年々なくなってきていること。学年主任5年目で、今は2年生の学年主任をしているが、英語民間試験導入中止など振り回された一年だった。保護者対応やら学校徴収金やら授業以外の仕事は増えこそすれ、減ることはない。二つ目として、自分にとって「歴史総合」はさほど魅力的な科目とは思えなかったことがある。私は勉強が好きで、その楽しさを教えたいと思って教師になった(もっとも、志望した英語科ではなく社会科にまわされたが)つもりだが、対話的というラベルのもとで生徒が苦し紛れに出した思いつきや、KP法などで歴史を学ぶ楽しさがわかるのだろうかという疑問を感じていたのである。しかし地方公務員の定年も延長されると、状況次第では私も65歳まで働くことになる。これまで「歴史総合」に対してとってきた「見て見ぬふり」や「様子見」はできない。

 新科目「歴史総合」を扱った本として、本書はとてもまとまっている印象を受ける。第1章で「歴史総合」に必要な視点と方法論、これを受けて第2章では具体的な授業モデルが提示されるが、一読して「使える」内容だと思う。というのも、第2章の冒頭で、授業時数年間60時間程度とし(3つの大項目はそれぞれ20時間、さらにその20時間の内訳は「導入:2時間-展開1:8時間-展開2:8時間-終結:2時間」と配分)、第2章で提示された授業プランはこの年間計画に準じている。しかも3つの大項目すべての授業プランが提示されているため、この本通りにやればとりあえず「歴史総合」の授業を行うことも可能である。これまで「歴史総合かくあるべし」というものは多かったが、実際の授業プランはあまり多くなく、あっても単発のものが多かった。掲載されている授業プランを一通り読んでみると、「歴史総合の授業」の具体的なイメージが頭の中に浮かんでくると思う。こうしたプランをもとに、教師個人がそれぞれによりよく改善していこうというスタンスが授業改善につながっていくと感じている。たとえば、72~81㌻に掲載されている福井を題材とした「地域→日本→世界」と広げていく授業で、自分たちが生活している地域を題材にするならばどのような題材がよいか、という感じで、自分たちの改善案を教員同士で話し合うことができれば最高だろう。

 第1章の内容も、よいと思う。「コモン・グッド」「SDGs」「レリバンス」「メタヒストリー」といったキーワードをもとに、授業改善の視点が提示されている。教育改革の動きに対して私が距離を置いていたのは、関連する文章や講演に「ルーブリック」「コンピテシー」「チェックイン」といったカタカナ用語がやたら多かったのも理由の一つである。今どきの教員ならば「わかっていて当然」なんだろうけど、説明もなしにそうした用語を使っている人をみると、尊敬すると同時に浅学さに卑屈になってしまい、とりあえずそのカタカナの意味内容をスマホで検索してみるものの、ついには「日本語で説明しろよ、気取りやがって、お前教師だろ」と逆ギレ暴走老人と化してしまうこともあった。この本ではそうした用語もキーワードとして解題してあり、すんなり頭にはいってきた。全体的に読みやすい一冊であり、「歴史総合」事始めにはオススメの本である。




高校社会「歴史総合」の授業を創る

高校社会「歴史総合」の授業を創る

  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本



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今年の東大の問題 [大学受験]

 第1問の大論述は、冊封体制がテーマ。具体的には、15世紀頃から19世紀末までの時期における、東アジアの伝統的な国際関係のあり方とその変容。史料が3つ提示され、論述内容の具体的事例として示さないといけないので、結構難しい印象。

 史料Aは明滅亡後の朝鮮で書かれた文書。中国が夷狄の満洲人による支配の地となったため、朝鮮が中華となったと自負している。崇禎帝は明最後の皇帝で、FGOに秦良玉が登場してからはネタにしやすくなった。徐光啓がアダム=シャールとともに作成した『崇禎暦書』が完成したのは、 崇禎帝の時代である。崇禎帝が自殺したのは1644年なので、史料は明が滅亡してから100年以上あとに書かれたことになり、なかなか強い意志を感じる。これは指定語句の「小中華」と組み合わせることが可能で、リード文の「国内的には....異なる説明で正当化」に関係するだろう。
 史料Bは「フランス」「フエ」がヒントで、ベトナムの阮朝でフランス人が書いた文章。「1875年から1878年」という年代なので清仏戦争よりも前だが、第一学習社『グローバルワイド最新世界史図表』巻末の年表をみると、1874年には第2次サイゴン条約が結ばれており、ベトナムに対するフランスの干渉が激しくなった時期に当たる。アヘン戦争・アロー戦争と清仏戦争の間の時期で、清の衰退によって冊封体制が崩壊に向かう時期でもあるが、それでも阮朝は清を宗主国として認めていた。一方で、フランス人の目にはそれが無礼に写っていったこともうかがえる。フランス人の常識であった主権国家体制と、伝統的な冊封体制がせめぎ合っているような印象である。場所がベトナムなので、指定語句の「清仏戦争」と組み合わせることができそうだ。
 史料Cは琉球が貿易ネットワークの中心であったことを示す史料だが、琉球処分が始まる1872年よりも前に書かれた史料だと思われる。山川の『詳説世界史』180㌻の記述に近いイメージなので、問題で指定された時期「15世紀頃から」に合致し、内容はリード文中の「自らの支配の強化に利用」と関係する。組み合わせる指定語句は「薩摩」だが、島津氏による琉球攻撃は17世紀の初めであり、琉球が日清に「両属」するのはそれ以降なので使用には注意が必要かも(『詳説世界史』190㌻)。ちなみに熊本の荒尾に亡命していた孫文が熊本の済々黌高校で講演をした際に、日本と中国との関係を「唇と歯」にたとえている。

 次に構成。最初に冊封体制の説明→変容という2部構成か。朝鮮・ベトナム・琉球を具体例として、後半の「変容」を説明する。
(1)「東アジアの伝統的な国際関係のあり方」
   ・冊封体制の説明
   ・使用する指定語句・・・・「朝貢」
   ・使用する史料・・・・C
(2)「東アジアの伝統的な国際関係の近代における変容」
   ・朝鮮における変容・・・・史料Aと指定語句「小中華」
   ・ベトナムにおける変容・・・・史料Bと指定語句「清仏戦争」
   ・琉球における変容・・・・指定語句「薩摩」
   ・冊封体制の崩壊・・・・下関条約

 残った指定語句「条約」をどう使うか。リード文に「このような関係は、ヨーロッパで形づくられた国際関係が近代になって持ち込まれてくると、現実と理念の両面で変容を余儀なくされることになる」とある。つまり冊封体制がヨーロッパ起原の主権国家体制によって変容を迫られることになるが、そのあらわれが対等な主権国家同士によって結ばれる「条約」であったという文脈で使うことにしよう。分量的には前半よりも後半の方が多くなりそうなので、前半200字+後半400字くらいか。最初の書き出しについて、「基本の3パターン」のうち今回は「リード文中の語句」を用いることにした。

【解答例】
東アジアでは、中国の諸王朝が周辺諸国の朝貢に対して返礼品の下賜と官職の授与を行う冊封体制が、伝統的な国際秩序として機能していた。史料Cに記されている琉球のように、この体制を受容した周辺諸国には経済的繁栄がもたらされた。また、明滅亡後の朝鮮で見られた小中華の思想のように、この体制を国内統治の手段として利用することもあった(史料A)。しかしヨーロッパ起原の主権国家体制が中国にもたらされて以降、冊封体制も変容を迫られることになった。19世紀になりアヘン戦争・アロー戦争に連敗した清王朝は、主権国家としてヨーロッパ諸国と様々な条約を結ぶことになり、冊封体制は動揺した。まず琉球は17世紀以来、薩摩と清に両属していたが、19世紀後半の琉球処分により冊封体制から離れることになった。またベトナムには19世紀からフランスが進出し、史料Bにみられるように近代的な主権国家体制と伝統的な冊封体制とのせめぎ合いが見られたが、清仏戦争に敗北した清は、天津条約でベトナムに対する宗主権を放棄した。そして17世紀以降外交関係を清と日本の2国に限っていた朝鮮でも、1876年に日本との間に日朝修好条規が結ばれたため、中国同様に主権国家体制と冊封体制とのせめぎ合いが見られた。この状況は、日清戦争後の下関条約で清が朝鮮の宗主権を放棄することで解消され、東アジアでは冊封体制にかわって主権国家体制が浸透することになった。
(591字)


 河合塾の解答例は「小中華」を「変容」の文脈で使っているが、それもアリだろう。駿台の解答例は、前半「あり方」で朝鮮・琉球・ベトナムに触れ、後半「変容」でも再び朝鮮・琉球・ベトナムに触れていて読みづらい。確かに、「変容」としては「変わる前」と「変わった後」の両者を述べる必要があるが、「変わる前」は三者に共通の点を述べることで要求を満たすように思われる。駿台よりも河合塾の解答例の方が良いと思う。
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